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留学同情勢ニュースブログ

留学同(在日本朝鮮留学生同盟)が朝鮮半島情勢をはじめとして様々な情報や見解を発信するブログです。

米国による朝鮮の貿易貨物船差し押さえについて

 朝鮮民主主義人民共和国(以下朝鮮)の貿易貨物船「ワイズ・オネスト」号が対朝鮮「制裁決議」と対朝鮮「制裁法」(米国の独自制裁)を違反したという疑いで、米国政府は朝鮮の貨物船を差し押さえたと発表した。
  (参考 http://japan.hani.co.kr/arti/politics/33433.html 
   ※ハンギョレ新聞 「米、北朝鮮の2番目に大きい貨物船を差し押さえ…前例ない圧迫に北の対応注目」 2019年5月10日付)

 そのことと関連し、5月14日、朝鮮外務省は代弁人談話を発表した。 (以下全文(日本語訳))
********************
 米国がわが貿易貨物船を国連安保理の対朝鮮「制裁決議」と彼ら(米国)の対朝鮮「制裁法」にかけて、米国領サモアに連れて行くという違法で非道な強奪行為を敢行した。
 米国がわが貿易貨物船を強奪した理由の一つとして持ち出した、国連安保理の対朝鮮「制裁決議」等はわが国家の自主権を乱暴に侵害するもので、われわれは今までこれを全面的に退け、糾弾してきた。
 さらに、自国の国内法を他国が守ることを強迫する米国の厚顔無恥な行為こそ、主権国家はいかなる場合にも他国の司法権の対象になりえないという普遍的な国際法に対する乱暴な違反である。
 米国の今回の行為は、「最大の圧迫」で朝鮮を屈服させようとする米国式計算法の延長であり、新たな朝米関係樹立を公約した6.12朝米共同声明の基本精神を全面否定することになる。
 米国は、強盗さながらの行為が今後の情勢発展にどんな悪い結果を招くかを熟考し、早急にわが船舶を送還すべきだ。
 米国が好き勝手に世界を動かした時代はすでに過ぎ去り、米国式「力」の論理が朝鮮に通じると考えるならば、それよりも大きな誤算はない。
 我々は米国の今後の動きを注視する。
********************

 さらに5月17日、朝鮮の金星国連大使は米国が貿易貨物船を差し押さえたことに抗議し、国連事務総長に緊急措置を講じるよう求める書簡を送ったと18日、朝鮮中央通信が伝えた。
 (参考 https://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2019051801001521.html
  ※東京新聞 「北朝鮮、貨物船押収で抗議書簡 国連総長に緊急措置求める」 5月18日付) 

 朝鮮は今回だけでなく、国連安全保障理事会の対朝鮮「制裁決議」について常に、国の自主権を侵害するものとして、糾弾してきた。そもそも、国連安全保障理事会の「制裁」とは一体なんなのか?
 (参考 https://www.unic.or.jp/activities/peace_security/enforcement/sanction/
   ※国際連合広報センターHP「制裁」)

*一部抜粋
 安全保障理事会は、平和が脅かされ、外交努力が失敗に終わったときには強制的な措置として義務的な制裁に訴えてきた。〜制裁の特質は武力の使用に訴えることなく、国家もしくは主体に圧力をかけることによって、安全保障理事会が求める要求を受諾させることである。従って、制裁は、理事会の決定を実施させる重要な道具を理事会に提供するものである。その普遍的な性格からみて、制裁を決め、監視するには国連がとくにふさわしいと言える。

 国連広報センターのHPにはこのように記載されている。国連安保理は朝鮮の核兵器・弾道ミサイルの開発とその保有に対して、2006年以降様々な制裁措置を行ってきた。朝鮮が核を保有することにより国際社会の平和が脅かされるため、核を放棄させるべく、国家に圧力を掛ける(=制裁)のである。

 だがしかし、平和を常に脅かしているのはどっちなのか?
  (参考記事 http://rhtjnews.blog.fc2.com/blog-entry-64.html
   ※留学同情勢ニュースブログ「ある国は好きに撃ち、ある国は実験だけでも制裁…これは一体何?」(4月9日『OhmyNews』より 2017年4月15日付)
 
 米国は常に核をちらつかせながら、各国を脅かしてきた。そして、現在も大陸間弾道ミサイルを保有している中国やフランス、英国のような国々が常任理事である国連安全保障理事会がどのような立場で、何の資格を持って、何目線で制裁措置を行うことができるのだろうか。本当に不思議である。
 米国は6.12朝米共同声明の基本精神に立ち返り、一刻も早く船舶を朝鮮に送還すべきである。(純)

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【同盟員限定】天皇制が受容されてはならない〜ある在日朝鮮人の怒り

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第2回朝米首脳会談について―日本の報道を見ながら考える

 2月27日から28日にかけて行われた第2回朝米首脳会談。事前の情報では朝鮮戦争の終戦宣言に関する言及もあるのではと囁かれていたが、結果的に会談で新たな合意は生まれなかった。会談後の率直な私の感想は、やはり数十年続く敵対と不信の関係は一筋縄ではいかないと改めて実感した次第だが、日本のマスメディアはこれをどのように報じたのか。
 朝米会談直後の全国5紙の社説は以下のとおりである。

【朝日新聞】(社説)米朝首脳会談 実質交渉を仕切り直せ
【毎日新聞】社説 不首尾の米朝首脳会談 非核化で見えた深い「溝」
【読売新聞】米朝首脳会談 完全な非核化へ仕切り直しを
【日本経済新聞】[社説]非核化に結びつかぬ合意はなくてよい
【産経新聞】【主張】米朝合意見送り 最大限圧力の原点に戻れ トランプ氏の退席は妥当だ

 毎日では、朝米で協議されていることが朝鮮半島における非核化の問題であるにも関わらず、「北朝鮮非核化」という形に歪曲されており、産経にいたっては、アメリカは対話路線ではなく圧力路線に戻るべきだという主張が、共和国が対話の席についたのは国連、アメリカ、日本をはじめとした各国の経済制裁による圧力のおかげだという前提のもとなされている。
 他にも気になるところはたくさんあるが、全体の雰囲気として、「決裂」や「深い溝」といった否定的な言葉が並び、両国首脳の政治力不足や実務者の事前準備不足などが指摘され、今回の会談は「失敗」だったという印象を受ける。(ちなみに、5紙すべてが「「北朝鮮」が米国にすべての制裁解除を要求」したと記述しているが、これは李容浩外相が記者会見にて指摘したように、実際には一部解除、つまり16~17年に採択された安保理決議のうち「民需経済や人民生活に支障を来す項目」をまず解除することを求めたため、すべて誤りである。)

 会談後のトランプ大統領の記者会見や朝鮮中央通信の報道(※日本語訳を後述)を見てもわかるように、今回の会談で新たな合意に達しはしなかったが、問題解決のために引き続き対話を重ねていくということは報道で明らかになっているので、日本のマスメディアが言うような「事実上決裂」といった状況ではないだろう。また、日本のマスメディアでは具体的な合意まで達しなかった原因は、「北朝鮮」がすべての制裁解除を要求する傲慢な条件を出したからだとか報じているが、実際にはアメリカ側が第1回首脳会談後、朝米交渉を膠着させ、その膠着状況を克服できていないことが大きな原因である。第1回首脳会談で段階別・同時行動原則を順守することが重要であるという認識で一致したにも関わらず、その後アメリカ側は、「CVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)」、「核リストの申告」のような一方的核廃棄要求を共和国に突きつけようとしたのである。共和国側はハノイ会談に先立ち、現時点で実施できる追加非核化措置について明らかにし、東倉里のエンジン試験場とロケット発射台の廃棄、アメリカの相応措置に沿った寧辺核施設廃棄の用意などを表明したが、アメリカ側は第2回首脳会談において「寧辺核施設以外の別の施設」も廃棄しなければならないと主張したのである。段階別・同時行動原則を無視したアメリカ側の主張は、朝米間の不信と対立を助長するばかりである。
 一人の朝鮮人として、朝鮮半島の平和を願う者として、今回の首脳会談が両国にとって足踏みをする形になったとしても、平和体制の構築、民族の統一のために、アメリカが段階別・同時行動原則を順守し、共和国への経済制裁を解除することを求める。また、一日も早く、朝鮮戦争の終戦宣言が発表されることを願う。当然のことだろう。
 しかし日本のマスメディアや政治家の論調を見ると、日本は根本的に朝米会談自体を歓迎していないのではないかとすら感じてしまう。これは、実際会談直後の菅義偉官房長官の記者会見を見ても明らかなのである。

【朝日新聞】菅長官、合意見送りを「全面的に支持」 米朝首脳会談

 引き続き朝米の協議を後押ししていくなどと述べてはいるが、実際のところどうなのだろうか。日本政府は第1回朝米首脳会談が一度中止になりかけた時も、トランプ大統領の中止の判断を支持するとしていた。日本政府は朝鮮半島がどう動くのを望んでいるのだろうか。以下の琉球新報の社説も見ながら考えてほしい。

【琉球新報】<社説>米朝首脳再会談 非核化に向け協議継続を
(一部抜粋)
 朝鮮半島情勢は、日本の安全保障政策、とりわけ沖縄の米軍基地の在り方に大きく影響を及ぼす。北朝鮮の非核化が実現すれば「普天間を置く根拠もなくなるだろう」とペリー元国防長官が指摘したのは記憶に新しい。
 政府はこの間、沖縄に米軍が駐留する理由として、北朝鮮などの脅威を挙げてきた。その論法に従えば、朝鮮半島に平和が訪れたとき、米軍が沖縄にいなければならない根拠は大きく揺らぐ。
 名護市辺野古の新基地建設は大義名分を失うはずだ。平和共存の枠組みづくりにも逆行する。県の試算で2兆5500億円を超える公金を浪費することにもなり、百害あって一利なしだ。
 非核化に向けた米朝協議の進展に期待したい。


 「北朝鮮脅威」を限界まで利用することによって成長してきた安倍政権であるから、「朝鮮半島の平和」というのは現在の安倍政権の政策や支持基盤を揺るがす大きな要因となるのだろう。たぶん、安倍政権が続いている内は、日本は平和へと向かう朝鮮半島情勢に一生コミットしえないし、できないだろう。(滉)


【※朝鮮中央通信報道】3月1日
 朝鮮労働党委員長で朝鮮国務委員会委員長であるわが党と国家、軍隊の最高指導者金正恩同志が2月28日、アメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領と再び対面して会談した。
 金正恩委員長は、現地時間で午前9時から朝米首脳会談の場所であるハノイ市の「メトロポル」ホテルでアメリカ合衆国のドナルド・トランプ大統領と再び対面して単独会談と全員会談を行った。
 朝米最高首脳たちは単独会談と全員会談で、シンガポール共同声明を履行するための歴史的な道程で刮目(かつもく)に値する前進が遂げられたことについて高く評価し、これに基づいて朝米関係改善の新しい時代を開いていくうえで提起される実践的な問題について建設的で虚心坦懐な意見交換を行った。
 各会談では、朝鮮半島の緊張状態を緩和して平和を促し、完全な非核化のために双方が傾けた努力と主動的な措置が相互の信頼を図り、朝米両国間に数十余年間持続してきた不信と敵対の関係を根本的に転換していくうえで重大な意義を持つということについて認識を同じくした。
 金正恩委員長とトランプ大統領は、シンガポール共同声明で提示した共同の目標を実行していくために現段階で必ず解決すべき問題に対する相互の見解を聴取し、その方途を真しに論議した。
 金正恩委員長とトランプ大統領は、70余年の敵対関係の中で重なった反目と対決の障壁が高く、朝米関係の新しい歴史を開いていく旅程で避けられない難関と曲折があるが、互いに手を固く取って知恵と忍耐を発揮して共に切り抜けていくなら、十分に両国人民の志向と念願に即して朝米関係を画期的に発展させていくことができるとの確信を表明した。
 朝米最高首脳たちは、2回目となるハノイでの対面が相互に対する尊重と信頼をいっそう厚くし、両国の関係を新たな段階に跳躍させられる重要な契機になったと評価した。
 金正恩委員長とトランプ大統領は、朝鮮半島の非核化と朝米関係の画期的発展のために今後も緊密に連携し、ハノイ首脳会談で論議された問題解決のための生産的な対話を引き続きつないでいくことにした。
金正恩委員長は、トランプ大統領が遠い道を行き来しながら今回の対面と会談の成果のために積極的な努力を傾けたことに謝意を表し、新しい対面を約束しながら別れのあいさつを交わした。

首脳会談

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「おかしい」のは誰か?

映画「アリラン」をご存知だろうか。
朝鮮が日帝の植民地支配下にあった1926年に制作された羅雲奎監督の作品である。
その当時の朝鮮民衆の生活と抵抗を表しており、主人公ヨンジンを筆頭に様々な朝鮮人の葛藤を描いている。
日帝による拷問で気が触れてしまったヨンジンが、村の人たちを苦しく過酷な日々から解放するために闘うストーリーは、今を生きる私たちをも突き動かす。

1926.jpg

先日、また一人日本軍『慰安婦』被害者の方がこの世を去った。
(生存者は、南朝鮮で確認されているだけでも残り23人。)
〔聯合ニュース〕死去した慰安婦被害者・金福童さん 解決求め体験語り続ける

金福童氏、かのじょが社会に与えた影響は大きい。もう二度と自分自身を同じ経験、思いをすることのないように自らの被害体験を語り続ける。それは深い傷をえぐることと何ら変わらないにも関わらず。
しかし、決して諦めないその姿勢は常に私たちを奮い立たせる。
生前、朝鮮学校にも足を運び、支援活動にも積極的にかかわっておられた。
〔ハンギョレ〕「キム・ボクトンさん、差別される在日コリアンの現実に心を痛めていた」

朝鮮学校無償化裁判の集会で両手をあげ大きく「ファイティン」と叫ぶかのじょの姿が今も忘れられない。
各地で追悼集会が催され、かのじょの生涯とその中での闘いが広く語り継がれている。

一方、元徴用工裁判の判決をめぐっても未だ決着はついていない。
強制連行・強制労働被害者である4人の原告が訴訟を始めて13年、そして日本での1997年からの裁判闘争期間を含めると21年…。この裁判において21年という歳月は、あまりにひどく、残酷な時間であったといえよう。提訴当時4人であった原告の方々のうち、たったの1人しか大法院判決を聞くことがかなわなかった。
現在においても、判決をそのまま履行すべきだという運動は続けられている。
〔ハンギョレ〕日帝強制動員被害者代理人団… 新日鉄住金日本本社を訪問し3回目の面談を要請

一貫して言えることは、そもそも日本帝国主義による植民地支配は南朝鮮だけでなく朝鮮半島、朝鮮民族全体に大きな被害をもたらしただけでなく、その清算が行われていない現在においてもそれは過去のものだと切り離せる問題ではない。
しかし、日本社会は一言で片づける。『反日』であると。日本の中では「終わった話」を蒸し返す南朝鮮。だから『反日』になるのだというこの構図は、すでに日本社会の中で定着しつつあるのではないだろうか。
(ちなみに、このような議論の場に朝鮮民主主義人民共和国の話は持ち上がらない。)
そもそも、過去に起こした自国の行いをどのように捉えているのかという疑問しかないし、『反日』を生み出したのは紛れもなく日本政府であり、その事実にすら向き合おうとしないことが長い時間が立った今日においてもそれらが解決をみない根本原因なのではないだろうか?
それにも関わらず被害者たち、支援者たちが「おかしい」のであって、日朝・日「韓」関係を好転させない原因であるのではないかという言説が後を絶たない。果たしてそうだろうか?
日本政府が過去の戦争や植民地支配に関して正式に謝罪したことはない。もし、それがなされていたとすれば国同士の、民族同士の関係は変わっていたかもしれないし、今日の上記のような問題も持ち上がらなかったはずだ。

ここで、2月11日発の朝鮮中央通信の記事を紹介する。

*****************************************************************************************
変わらない海外膨張野望の発露 朝鮮中央通信社論評

【平壌2月11日発朝鮮中央通信】
最近、南朝鮮の海軍艦艇に日本の海上「自衛隊」の巡察機が近接飛行する事件が次々と発生した。

昨年12月に続いて今年1月だけでも、3度の威嚇的な低空飛行が強行されて、そうでなくても脆弱な南朝鮮と日本間の関係は現在、急速に悪化しているという。

上記の問題に関連して、南朝鮮と日本間の葛藤と摩擦が深化している背景は何か。

古くから破廉恥な挑発をこととして他国に侵略の魔手を伸ばしてきたのがまさに、日本である。

次々と強行される近接飛行事件も、他国に言い掛かりをつけて自分の利益をむさぼろうとする日本固有の体質的な領土膨張野望の発露であり、その延長線上で起こったことである。

今回の事件を契機に、朝鮮半島平和の雰囲気を壊し、わが民族に対する再侵略野望を実現してみようとする日本反動層の犯罪的悪巧みがいっそう赤裸々にさらけ出された。

日本は歴代、「北の脅威」についてうんぬんし、それを口実にして軍国主義の復活と再侵略野望の実現に狂奔してきた。

朝鮮半島で緊張の水位を引き上げて軍国主義の復活と「自衛隊」の強化に有利な政治的環境を整えてみようとする日本反動層の犯罪的企図がいっそう露骨になっている。

朝鮮半島の情勢緊張にかこつけて憲法改正を推し進めて海外侵略の道に合法的に踏み出そうとあがいてきた日本の反動層はこんにち、自分らの政治目的の実現に最近疎遠になった南朝鮮との関係まで利用している。

今、南朝鮮の各階層の人々の間で反日機運が日々高まっているのは至極当然なことである。

日本の海外膨張野望は過去も現在も変わりがなく、さらに増大している。

体質的に隣がうまくなることを望まない日本の反動層こそ、わが民族の和解・団結を阻み、朝鮮半島と地域の平和と安定を破壊する癌的存在である。

全同胞は、北と南を選ばずに挑発をこととし、わが民族の未来と朝鮮半島の平和と繁栄を阻む日本反動層の対朝鮮敵視政策と再侵略野望を断固と粉砕すべきであろう。

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「おかしい」のは誰か?今一度考えるべきだと思う。
日本による植民地支配の暴力が、朝鮮民衆に対しどのような被害をもたらしたのか。
それに対し、朝鮮民衆はどのように考え立ち上がって抵抗してきたのか。そして、それを真摯に受けとめ向き合うことを避け続けてきた結果、現在どうなっているのかを考えなければならないのではないでしょうか。
これは日本の歴史認識の問題なのだ。

私たちは、この日本社会が変わらないかぎり考えることをやめず、絶えずしてこの「おかしい」と眼差しを受け続ける。
そう、映画「アリラン」の主人公ヨンジンは、今日もどこかで生き続けている。(明)

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3・1人民蜂起100周年 2019年の転向・親日問題から考える

 3.1人民蜂起100周年となる2019年、改めてその歴史的意義を考える必要性を感じるとともに、「民族自決」「自主独立」という100年前の課題が現在のものでもあるということは今の朝鮮半島情勢や日本社会の朝鮮弾圧・バッシングを見てもわかる。

 2018年、朝鮮半島情勢が大きく動く中、南朝鮮では「ミスターサンシャイン」というドラマが大ヒットした。内容は1900年前後の義兵闘争(戦争)を主に扱ったもので、3・1人民蜂起につながる重要な歴史を描いた作品が100周年を前にヒットしたという点は示唆的である。2019年3月1日には、100周年記念行事が南北共同で催され、3・1人民蜂起の歴史的意義を再確認する営みは朝鮮半島各地で行われるだろう。
 
他方日本では、明治維新150年、「西郷どん」である。明治を「栄光の歴史」として描き、朝鮮への侵略・植民地支配の歴史をなかったことにする、または「日本が朝鮮を近代化した」という認識が蔓延する中、日本政府が加害の歴史と向き合おうとする動きは建前すらない。おそらく3・1人民蜂起100周年の様々な営みに対しても応えることは全くないだろう。

 そのような中、注目したい記事として、2018年の11月24日付の産経新聞に、姜尚中氏のインタビュー記事が載った(「海峡を越えて『朝のくに』ものがたり」(46)姜尚中)。産経新聞の出たこともさながら、驚くべきはその内容である。日本政府にとって都合の良すぎる「モデルマイノリティ」としての主張に思わず笑いそうになった。

日本国籍を取るのが自然の流れでしょうね。ひとつの物語の終焉です」、「日本にいる以上、日本の流儀に従うべきでしょう。」、(日本への帰化を)「外来種から、本当の在来種への転換。その物語を完結させる儀式」、「日本社会がうまく“受け皿”をつくっていれば、同化はもっと早かっただろうと思う。」、「『コリアン・ジャパニーズ』としての個性を重んずる社会を実現すべきでしょう」(全て上記記事より)

 姜尚中の転向に関しては以前から指摘されており(金光翔氏のブログ「私にも話させて」に非常に詳しい)、「北の脅威」を煽るだけ煽る近年の発言には目も当てられないほどであったが(例えば、「AERA」の連載)、ここまではっきりと変節しそれを堂々と発するようになったのか。朝鮮半島情勢や在日朝鮮人に関する発言は徐々に控えそっとフェードアウトしていくのだろうと思っていたのだが、堂々と「植民地朝鮮親日エリート」として言論活動を続けるのだろうか。
 
金光翔氏のまとめによると、従来姜尚中は、日本の戦前と戦後の連続性とそれによる戦後も続く在日朝鮮人排除、侵略・植民地支配の未清算を批判してきた(『姜尚中はどこに向かっているのか―在日朝鮮人の集団転向現象10』)。また在日朝鮮人のアイデンティティに関しても、「大雑把に言えば、在日朝鮮人の直面する諸課題と分断「祖国」が直面するそれとの歴史的共通性を重視し、その共通の課題解決の努力を通じて「祖国」を志向するようなあり方に在日朝鮮人の社会的・政治的アイデンティティを置くべきであり、「定住外国人」としての権利についてもその視点から論じられるべき」(『在日朝鮮人言説の変容について(9)』)だという。また、1991年に在日朝鮮人の運動団体で行った講演の中では、「在日同胞の帰化を食い止め、朝鮮人としてのアイデンティティを保ちつつ、そして統一された祖国との関係を持ちながら」生きるための物質的な基盤作りの必要性について熱弁している(その後、どのように変節していくのかを追った考察は非常に興味深い)。

単に一人の情けないエリートの変節と堕落であるなら笑っておしまいであるが、これは姜尚中個人の問題ではなく、日本国家・日本社会の構造的な問題である。日本政府や産経新聞はもちろん、朝日新聞(「AERA」は朝日新聞出版)も現在の姜尚中のような在日朝鮮人知識人を求めているのであり、だからこそ姜尚中のような在日朝鮮人知識人も進んで転向していく。個人の問題ではなく、自分たちの前にも同じ罠が仕掛けられている。

そして、この転向の問題は、極めて歴史的な問題でもある。植民地下における朝鮮人知識人の中には、初期には「朝鮮独立」を叫びながら、日中戦争期には「内戦一体」「大東亜共栄圏」というプロパガンダを叫んだ人たちも少なくない。2・8独立宣言を起草した李光洙はその代表であり、3・1独立運動の民族代表も多くが後に親日行為に走った。血も肉も骨も日本人にならなければならないと朝鮮人に訴えた李光洙と、「日本にいる以上、日本の流儀に従うべき」と言う姜尚中は共通する。植民地期のみならず、日本による植民地支配が作り出した朝鮮人同士の分断が朝鮮半島の分断につながり、植民地支配責任が不問にされたまま日本による朝鮮認識(蔑視)と朝鮮人弾圧が温存される中、現在においても共通の問題が存在する。

李光洙

それは知識人だけの問題ではなく、運動全体の認識が問われる。くしくも転向前の姜尚中が言ったような「在日朝鮮人の直面する課題と祖国の直面する課題との歴史的共通性」を認識し、現在そしてこれからの祖国を志向することが求められるのではないだろうか。だからこそ、2019年、3・1人民蜂起の歴史的意義を再確認するとともに、日本による朝鮮植民地支配責任を問い、朝鮮人の民族解放闘争の歴史から学ぶ作業が求められる。(貴)

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徴用工裁判と『シンニッテツ』の記憶

 昨年10月30日、南朝鮮の大法院でとある裁判の判決が下った。元徴用工損害賠償請求訴訟(以下、徴用工裁判)である。これは、元徴用工の方々が2005年にソウル地方法院に提訴し、13年越しに判決が出たものである。
 この裁判については以前本ブログで扱ったため、そちらを参照して頂きたい。

〈参考記事〉 徴用工問題の論点を整理する~「個人請求権」と「解決済」論~

 今年に入り、原告2人が大邱地裁浦項支部に申請した新日鉄住金の南朝鮮内にある資産の差し押さえが認められ、1月9日に通知が同社に届き、実質的に差し押さえ措置の効力が発生した。

〈参考記事〉
[聯合ニュース] 新日鉄住金の資産差し押さえへ 韓国地裁が承認
[毎日新聞] 日本、韓国に政府間協議要請へ 新日鉄住金保有株の押収決定
[東京新聞] 韓国に元徴用工協議要請 日本政府が差し押さえ通知受け

 強制連行・強制労働被害者である4人の原告が訴訟を始めて13年、そして日本での1997年からの裁判闘争期間を含めると21年…。この裁判において21年という歳月は、あまりにひどく、残酷な時間であったといえよう。それは、提訴当時4人であった原告の方々のうち、たったの1人しか大法院判決を聞くことがかなわなかったからだ。

 それにも関わらず、日本政府と企業は未だにこの判決を受け入れず、日本政府は「日韓請求権協定」や個人請求権に関して首尾一貫しない主張を繰り返し、大法院判決が「国際法」に反するかのような言説が繰り広げられている。

 総理大臣である安倍晋三首相は判決直後に「極めて遺憾だ」とし、今年に入ってからも「国際法に基づき毅然とした対応をとるため、具体的な措置の検討を関係省庁に指示した」との発言をした。
〈参考記事〉[毎日新聞] 「毅然とした対応を」安倍首相が対抗措置検討を指示 元徴用工訴訟

 筆者は私が住むこの国で、私たちが受けてきた/いる差別を思い返しながらこの国の“総理大臣”が口走ったこの発言に怒りを禁じ得ない。

 本文では、元徴用工訴訟の最高裁判決がなされたあとも、新日鉄住金が賠償に応じていないことに憤りを覚えつつ、この報道を見るたびに筆者が思い出すこととそれと関連して考えることについて簡単に綴りたいと思う。

 私は北九州で育った。その地は製鉄業が盛んで、官営八幡製鐵所を中心に多くの製鉄所があった。今でもその影響で工場や溶鉱炉が多くある。この裁判の被告にあたる“新日鉄住金(旧新日本製鐵)”は筆者が幼い頃からなじみ深いものであり、よく『シンニッテツ』と呼ばれていた(これはどちらかというと旧名である新日本製鐵の略称が定着したものである)。筆者は当時『シンニッテツ』がどんなものかも知らず、ただ北九州を支えている企業という認識があり、むしろ「かっこいい」とすら思っていた。

 2015年、官営八幡製鐵所は世界遺産登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産となった。1901年に操業を開始した官営八幡製鐵所は、“日本の産業の近代化”に貢献し、“産業都市・北九州市の発展の礎を築いた”のだそうだ。
 
 よく通る道に『祝!官営八幡製鐵所世界遺産登録!』のような文言が並んでいた。私はその時初めて自分がどのような場所で育ったのかを自覚した。車で行ける範囲に筑豊地方があったのもあり、自分が育った場所が在日朝鮮人が多く強制連行されていた場所であることにまで考えが及ばせられなかったのだ。見渡せば溶鉱炉が多くあり、実際に在日朝鮮人の部落もそこにあったということは生前ハラボジ(祖父)から聞いていたにもかかわらずだ。

 私はそのことに対して深く反省している。自分が育った土地で起こっていたことすら知らず、自分たちが被ってきた被害を主張できない状況。それは日本社会が歪曲し、隠ぺいしようとしている私たちの歴史、在日朝鮮人が生きた証を風化させていくことに直結するのではないだろうか。そしてそれを許してしまっているのは(日本政府はもちろんであるが)当事者である私たちでもあるのではないだろうか。

 この文を読んでくださっている方のうち自分の生きてきた土地で何が起こってきたのかを語れる人はどれだけいるだろうか。自分が育った地域の歴史を知れば知る程、強制連行/強制労働がどれだけ苛酷で朝鮮人が受けてきた扱いがどれだけ悲惨であったのかを思い知る。

 そしてその扱いは今もまだ続いている。朝鮮学校の高校「無償化」制度排除や日本軍性奴隷制被害者への対応、そしてこの徴用工裁判への対応…。どの問題をとっても日本政府は朝鮮人を対等な人間と考えていないのである。

 私は、朝鮮人が人間として堂々と尊厳をもって生きられる社会になるよう、これに立ち向かっていきたい。そして私たち在日朝鮮人が生きてきた証をひとつでも多く残していけるよう、活動に邁進していくことを表明し、本文を締めくくろうと思う。(知)

◆元徴用工訴訟と「日韓請求権協定」の政府解釈の変遷について詳しく知りたい方は、下記のサイトをご参照ください。
法律事務所の資料棚(制作・管理者:山本晴太[福岡県弁護士会所属 弁護士])

強制連行

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三・一運動100周年と在日朝鮮人―朝連の三・一記念闘争と三・一認識(三)

朝連の三・一記念闘争と三・一認識(一)

朝連の三・一記念闘争と三・一認識(二)


3.1948年の三・一記念闘争

 

―分断反対闘争の展開と米ソ両軍同時撤退促成

 

 在日朝鮮人は解放後三度目となる三・一記念日を南朝鮮単独選挙の実施、朝鮮分断が現実化するなかで迎えることとなった。まず、1948年の記念闘争を論じる前提として、米ソ共同委員会の休会と決裂という状況下で、朝連が何を訴え活動を繰り広げたかについて見ていきたい。

 1946年以後の南朝鮮における単独政府樹立の動向に対する反対は、第一次米ソ共同委員会が決裂し、李承晩による南朝鮮単独政府樹立を示唆する井邑発言(194663日)がなされた直後から提起された。在日朝鮮人が発刊した新聞はこうした南朝鮮における単独政府樹立に向けた動きを伝え、これに対する「粉砕」を主張した。たとえば『大衆新聞』は1946620日に「南朝鮮単独政府樹立の陰謀を粉砕する」という社説を掲載し、『民衆新聞』も71日に「一部反動政客」が「南朝鮮単独政府樹立を実現させようとすること」を報じ、その警戒を促した。

 こうしたなか朝連は、単独政府樹立を構想し、米ソ共同委員会を破綻させる動きに対する反対を掲げ、米ソ共同委員会による朝鮮臨時政府樹立を促成することを重要な運動課題として活動を繰り広げた。たとえば、第二次米ソ共同委員会再開(1947521日)の直後に朝鮮人生活権擁護委員会も機関紙にて、米ソ共委の成功を促し、反信託統治勢力と闘うことを呼びかけた上で、「かれらが過去一年間にとった策動は、〔南朝鮮過渡〕立法議院の独占であり、単独政府の夢想であった」と批判した。

 『解放新聞』も同時期に「米ソ共同委員会を成功させよう!」という社説(1947.6.1)を掲載し、モスクワ三相会議決定に反対し、単独政府を樹立する動向に対して、次のように主張した。

 

全人民が要望する真なる民主改革の基礎の上に南北が民主的統一をしなければならない〔中略〕モスクワ決定に反対し、人民の幸福と民族の限りない発展を妨害して、少数の悪質地主と反動資本家たちの独裁政府を陰謀する李承晩、金九、金性洙等反動徒輩たちの一切の罪悪を余地なく暴露して、いわゆる南朝鮮単独政府樹立陰謀を粉砕しなければならない〔中略〕在日六十万同胞わが朝鮮同胞も生活権擁護のための活発な大衆運動を展開し、本国三千万同胞と呼応して、一切の反動と闘う闘争のなかでわれわれの力を集結させ米ソ共委成功において、強大な民主勢力の一翼を担当しなければならない〔中略―右翼反動側では〕同時に米ソ共委決裂後即時反動的「総選挙」を行なって、南朝鮮単独政府を建てる計画の下に、反動選挙法を制定しようとしている

 

 米ソ共同委員会を成功させ、民主改革の基礎の上に南北朝鮮の民主的統一が必要であると強調されるとともに、李承晩などのモスクワ三相会議決定を破綻させようとする勢力による第二次米ソ共同委員会の決裂、南朝鮮単独選挙の実施が予見され、それに対する反対が示唆されていたのである。米ソ共同委員会決裂以前からの南朝鮮単独政府樹立に対する強い危機意識が伺える。

 しかし第二次米ソ共同委員会は19477月に決裂し、米国は9月に朝鮮の独立問題を国連に上程し、1114日には国連総会において国連臨時朝鮮委員会の設置、国連監視下での代議員選挙の実施などが決議された。

 こうして単独政府樹立に反対し、米ソ共同委員会促成を求める活動は、米国がモスクワ三相会議決定を破棄し、朝鮮の独立問題を国連へ上程した後から、米ソ両軍同時撤退促成運動として展開されることとなった。朝連は、19479月にソ連が提起した米ソ両軍同時撤退案を「朝鮮独立問題の根本的解決の促成になる」として支持し、「三千万同胞は、双手を挙げてこの提案を歓迎し、この実現のために努力せねばならない」と呼びかけることとなった。

 この米ソ両軍同時撤退促成運動は、第四回全体大会(194710月)において「今般の撤兵案は事実において三相協定の発展を意味する」と説明されたとおり、朝連が1946年以後掲げてきた米ソ共同委員会促成を求める活動が発展したものとして位置づけられる。

 この後、194818日に国連臨時朝鮮委員会のメンバーはソウルに到着し、その直後北朝鮮の各地では国連臨時朝鮮委員会への反対、米ソ両軍同時撤退を求める人民大会が行われ、27日に南朝鮮では単独選挙の強硬に反対するストライキが発生し、南朝鮮全域にストライキ、農民デモ、同盟休校が拡がっていった。

 こうした朝鮮本国の状況は新聞報道などを通じて在日朝鮮人にも詳細に伝えられた。たとえば『解放新聞』も朝鮮本国の二・七救国闘争の状況を詳細に伝えた。1948215日付にて初めて「南朝鮮一帯総罷業突入!!国連朝鮮委員団を反対 米ソ両軍同時撤兵を主張」、「電信、有線・無線全部不通 中央逓信局 地方警察派出所を多数襲撃」、「大規模な人民抗争 十日まで各地の情報」、「三日間罷業を米軍に通達 秩序ある罷業が展開」などの見出しで報じられたのをはじめとして、「南朝鮮抗争は継続」、「一千四百余名を検挙」、「ソウルで学生示威 四百余名が被検」(220日付)、「被死十七、被検五百余 慶南 南朝鮮抗争地方詳報」、「農民も多数参加 全州 三百余学生が示威」(225日付)、「二・七人民抗争続報」(194835日付)と報じられていた。こうした朝鮮本国の状況のなか、朝連は単独選挙・国連臨時朝鮮委員会への反対、米ソ両軍同時撤退促成、二・七救国闘争への呼応を呼びかけ、活動を繰り広げたのである。

 そして朝連は南朝鮮単独選挙案が国連小総会にて採択された直後、229日に単独選挙に反対する議長団声明を発表し、「このたびの国連小総会決議は、まさに民族を破滅に導くものである」として、「われらは、南朝鮮単選、単政案を絶対排撃し、あくまで米ソ両軍同時撤退、自力による統一民主政府樹立のために闘わなければならない」と訴えた。こうして南朝鮮単独選挙実施が現実化するなか、この翌日朝連は解放後三度目となる三・一記念日を迎えることとなったのである。

 

―三・一記念闘争の方針と準備課程

 

 朝連は1948年の三・一記念闘争において、記念日当日に集中した三・一記念闘争の在り方を総括し、緊迫した情勢のなかで直面する運動と結びつけるための宣伝活動をより重視するようになる。朝連は十三中委(194812730日)にて三・一記念闘争と宣伝活動の積極化について方針を定め、「三・一革命の革命的意義と祖国の新事態とを結びつけて、米ソ両軍同時撤兵、自力での統一政府樹立を目標に同胞大衆を革命的雰囲気のなかで宣伝、啓蒙」することで、「迫りくる一大闘争」に備えるよう全力を集中させることを決定した。

 こうして朝連中総は220日〜31日の11日間を三・一記念闘争週間に設定した。週間の方法として、「三月一日の一日のみの大衆を集める形式的な集合に終始する傾向を克服し、各地方の現在当面している諸般特殊問題についてそれを今回の週間活動に結びつけ、解決を期すること」を強調した。そして記念闘争週間に分会・支部単位で小集会、懇談会を開催すること、31日にその集大成として人民大会を開催し、日本当局に提出する「民族差別的不法弾圧絶対反対」の抗議文、国連臨時朝鮮委員会に送る「南朝鮮単独政府樹立絶対反対」の決議文を採択することを決定した。

 こうして朝連は、記念闘争を通じて単独選挙・国連臨時朝鮮委員会への反対や二・七救国闘争に呼応することを強く呼びかけた。実際にこの時期朝連は、機関紙の「主張」(1948220日付)にて単独政府樹立の危機を前に、三・一記念闘争の意義について次のように強調した。

 

今度の闘争のもつ意義が従来のどの記念闘争よりも最も重大であることをよく認識し、特に緊迫した祖国の政治情勢を正しく反影させて在留同胞をして祖国人民の闘いと直結させる方向へ全力を集中しなければならない。七日早朝を期し、南朝鮮人民は、国連委員団退去、両軍即時撤退を叫んで、ゼネストに突入し、〔中略〕死者を出したとの報は、われわれに大きな衝撃を与えた。〔中略〕この現下の祖国情勢と三・一記念闘争とを結びつけ、在留六十万同胞をして昂揚した祖国人民の闘いと直結し、相呼応して起ち上がらせる所に今度の週間闘争の政治的重大意義があることを指摘し、強調するものである。それは国連委員団反対、両軍即時撤退の闘いへ六十万同胞を決起させることである

 

 このように朝連は二・七救国闘争へ呼応し、三・一記念闘争と国連臨時朝鮮委員会への反対、米ソ両軍同時撤退促成とを結びつけ、在日朝鮮人が「祖国人民の闘い」と直結し、決起することを呼びかけたのである。なお朝連はこの「主張」において、二・七救国闘争を国連臨時朝鮮委員会への反対と米ソ両軍同時撤退を求める北朝鮮人民の動きに呼応するものと捉えており、「北朝鮮一千八百万人民の叫びに呼応してのこの度のゼネストはそのもつ政治的意義は極めて重大である」と主張していた。

 

―三・一記念闘争週間

 

 朝連の三・一記念闘争週間では、宣伝巡回班が組織され、各地で宣伝活動が行われた。記念闘争週間の方針では宣伝内容として、三・一運動の歴史と意義、朝鮮独立の未完/米ソ共委決裂の原因、モスクワ三相会議決定/国連臨時朝鮮委員会/民戦・民戦三原則とは何か、南朝鮮単独政府樹立の意味、「どのような朝鮮を建設しなければならないか」、「北朝鮮はどのようになっているか」、「南朝鮮同胞はなぜ生きていけないか」などが宣伝されることとなった。ほかにも教育者同盟、在日本朝鮮文学会、朝鮮美術協会は、三・一運動記念日の意義と使命について一般大衆と青少年層に伝えるために三・一運動に関する紙芝居を作成しており、宣伝活動のため多種多様な取り組みが行われたようである。

 たとえば東京では、朝連、民青、女同、教育者同盟、朝学同、解放救援会などの各団体から記念闘争を推進するために各支部に二名ずつ派遣され、各分会にて泊りがけで膝を交えて、三・一運動の歴史的意義、朝連路線、本国情勢、当面の生活危機打開策などについて話合われたという。こうして記念闘争週間に一斉に、東京の分会の約9割にあたる134分会にて、総3816名の参加の下、会合が開かれたことが確認できる。こうした三・一記念闘争週間における幹部・活動家の姿勢やこれからの課題について、金英敦・朝連東京委員長は次のように述べていた。

 

ある程度大きな会合でよく演説やアヂなどをやれると自負してる者であっても、今回のように分会を中心にせいぜい二、三十名内外の同胞と、膝を交えて懇談的に話を進めた場合、いろいろの具体的な質問や要望に対し、果してどれだけの自信をもって大衆に納得のゆくよう説明ができるか、というのも私自身非常に疑問に思っているからである。だからといって決してそれを恥とは思わない。また切実に感じたことは大衆と常に接触することによって大衆から教わり、または活動の材料を与えられたということである。今後薄っぺらな宣伝教育よりもこうして一人一人に執拗に納得させるような努力が是非必要であると思う。その為には、まず私達自信がもっと勉強しなければならぬことを痛感する。〔中略〕簡単に大衆の意識が低いのだといって片づけるのは大きな誤りであるということである。こういう人にかぎって大衆とあまり接触していない。私自身の経験または報告によると、一般同胞が、内外情勢や生活問題、または朝連路線問題について非常に熱心に真面目にききだそうという態度をはっきり知ったからである。

 

 このように三・一記念闘争週間を通じて、在日同胞一人一人に寄り添い、膝を交え交流し、大衆から学ぶこと、納得させるための努力や学習の重要性、在日同胞の運動や情勢を知ろうとする熱意が実感として確かめられたことが強調され、今後の教訓とされたのだった。

 

―三・一記念大会

 

 194831日、例年と同様に各地で大規模に記念大会が開かれた。この日、東京(人民広場〔皇居前〕、8千名)、大阪(中島公会堂、3万名)、兵庫(神戸高等工業学校運動場、2万名)、愛知(名古屋駅前大広場、35百名)、京都(円山公園、1万名)、山口(山口商工会議所講堂、6百名)、山梨(山梨商工会館、6百名)、福岡(福岡市東公園、1万名)、栃木(宇都宮公会堂、1千5百名)、静岡(静岡市公会堂、3千名)、埼玉(浦和公会堂・川越公会堂、8百名)、千葉(寒川小学校講堂、15百名)、石川(23百名)、神奈川(25百名)、宮城(2千名)、富山、群馬、秋田などの各地で記念大会が開催されたことが確認できる。

 1948年の記念闘争では、1947年の記念日よりも緊迫した本国情勢のなかで、一切の「慶祝気分」を無くすことが強調された。三・一記念闘争週間方針では「注意事項」として、「今般の記念闘争は、重大な祖国の現実に照し一切の慶祝気分を一掃し大衆の革命的気概を昂揚させ、現実の闘争に結びつけるために特に配慮すること」が強調された。

 在日朝鮮人がいかに厳しい状況下で三・一記念日を迎えなければならなかったかは当日の決議、要求事項からも伺いしることができる。たとえば大阪では「朝鮮人教育自主権」の認定、公安委員会への朝鮮人団体の参加要求、外国人登録証撤廃などが緊急動議で決議された。また埼玉では、教育への不干渉、正当な外国人待遇、食糧増配、失業者生活保障などが決議され県庁に提出された。このように記念日当日は各地の記念大会で、朝鮮人不法弾圧・不法課税に対する反対、朝鮮人教育自主権の認定、在日朝鮮人の法的地位・生活権の保障を求める決議がなされていたことが確認できる。


人民大会 

 それでは当日の記念大会の様子について、東京の大会を具体的に見てみたい。東京では、例年と同様に「三一運動二十九周年記念大会」という名称で、人民広場(皇居前)にて8千名規模で行われた。会場では、「三・一革命の伝統を継承して完全自主独立を戦取しよう!」、「米ソ両軍は同時に急速に撤退せよ!」、「政権を人民委員会に渡せ!」、「日本人民と提携協力して生活危機を打開せよ!」などのスローガンが掲げられた。記念大会は午前10時半に開幕し、プラスバンド演奏、大会議長の選出、開会辞、演説・祝辞、宣言文の朗読、決議の順で進められた。大会宣言文朗読の後、当面の闘争目標について発言した金天海氏は、「民族の自決権を確保するためにわれわれには当然国連委員団と米ソ両軍の同時撤退を要求する権利があり」、「われわれが外国の干渉を排除して自主的に統一民主政府を樹立することを妨害する権利はどの国にもない」と強調した。民族自決権のために国連臨時朝鮮委員会と米ソ両軍の撤退を求め、統一民主政府樹立を訴えたのである。

 その後13時半から15時半まで、朝鮮中学楽隊を先頭に中央師範、幹部訓練生、中学生、朝学同、民青、女同、初等学院の各大隊などが「解放の歌」に歩調を合わせ、「南朝鮮兄弟たちよ!勇敢に闘おう!」などのプラカードを掲げ一大示威行進を行った。

 

―三・一運動と米ソ両軍同時撤退促成運動:「朝鮮は朝鮮人の手に任せよ!」

 

 このようにこの日、各地で二・七救国闘争をはじめとする人民抗争への呼応、人民委員会への政権移譲要求が叫ばれ、単独選挙・国連臨時朝鮮委員会への反対と米ソ両軍同時撤退を求める決議がなされた。

 朝連は三・一記念日に際して、三・一運動の歴史的意義と伝統を強調することで、国連臨時朝鮮委員会への反対と米ソ両軍同時撤退を訴えた。朝連は1948年の三・一記念日に際して「三・一革命二十九周年記念在日本朝鮮人民大会」名義にて決議文を採択し、「一九一九年三月一日革命の二十九周年に際し国連朝鮮委員諸氏に決議文を送ることを遺憾に思う」として次のように訴えた。

 

それは即ち委員諸氏がもしも三・一運動の歴史的意義を充分理解していたならば、朝鮮問題に関し現在のような効果のない苦労をせざるを得ないような使命をもつ必要はなかったと認識するからである。〔中略〕現在多くの犠牲をかえりみず、朝鮮統一完全自主独立のため抗争している朝鮮人民の要求もまたこの三・一運動以来の民族の伝統と教訓を継承したものである

 

 さらに決議文では、「国連委員団諸氏が、三・一運動から、朝鮮民族解放闘争史を一貫して流れている反帝国主義闘争の本質を正確に認識」し、「国連朝鮮委員会の使命を即時中止する」ことを求めた。このように朝連は、国連臨時朝鮮委員会に対して三・一運動の歴史的意義と伝統を強調することで、現在における朝鮮人民の闘争の意味を訴え、撤収を求めたのである。

 ほかにも埼玉の記念大会では、南朝鮮民政長官・安在鴻に対して、単独選挙絶対反対、愛国者即時釈放、米ソ両軍即時同時撤退の実現を求める抗議文を採択したという。

 上述したように朝連は、1948年における朝鮮人民の抗争を三・一運動以来続いている「反帝国主義闘争」の一環として位置づけた。こうしたなかこの時期には、二・七救国闘争が三・一運動の経験と教訓を活かした十月抗争を継承したものとして強調されていたことが確認できる。『解放新聞』にて194824月に「三・一の史的意義と今日の課題」という論文を執筆、掲載した李卿勲氏は、三・一運動と十月抗争、二・七救国闘争への継承について次のように指摘した。

 

〔解放後の南朝鮮の情勢は〕賃金を上げろ、米をくれ、仕事をくれ、自由をくれ、政権を人民に渡せ、UP委員団〔国連臨時朝鮮委員会〕は出て行け、米ソ両軍は早く撤去せよと叫んで生じた、それがほかでもない十月人民抗争であり、二月七日以後に継起する抗争だった。〔中略〕十月抗争はこの三・一の経験と教訓〔分散的、非組織的、武装戦術放棄という問題〕を活かし、規模において、内容における発展として闘争の急激な発展と高度化した武装進出段階にまで昂揚した。この伝統を活かし、完全な自主独立の闘争は十月抗争以後不断に継続され、二月七日の罷業闘争で人民抗争戦闘力はより拡大強化している

 

 このように二・七救国闘争が発生した直後であったこの時期に、二・七救国闘争が三・一運動の伝統を活かした闘争、十月抗争を継承したものとして強調されたことは重要である。この論文において、政治的スローガンを比較する際も三・一運動、十月抗争、二・七救国闘争の3つの闘争の特徴が並べて論じられており、三・一運動と十月抗争との連関で二・七救国闘争が意識されていたことがわかる。

 さらに1948年の三・一記念日には、米ソ両軍同時撤退促成という運動課題のなかで三・一運動の訴えとその意義が強調されたことが確認できる。『解放新聞』は三・一記念日に「三・一の号召―その伝統と教訓を活かそう!」という社説を掲載し、次のように呼びかけた。

 

全朝鮮の坊々谷々において『日本軍隊は出ていき朝鮮は朝鮮人に任せよ』という自由と正義を求める大きな声は天地を震わせ、反日帝示威行列は大きな波濤となり発生した。〔中略〕歴史は今日、われわれにこの三一という烽火で命じている―三一当時の『朝鮮は朝鮮人の手に任せよ』というこの号令は今日、われわれの当面の口号だ〔中略〕われわれの血管に流れている三一の伝統で米ソ両軍同時撤退を実現させ、朝鮮問題は朝鮮人自身が解決しよう〔中略〕三・一は決して追悼の日ではない、闘争の日だ、闘争を激励する日だ!三・一二十九周年万歳!朝鮮人民共和国樹立促進万歳

 

 このように、三・一運動が「日本軍隊は出ていき朝鮮は朝鮮人に任せよ」と訴えた「反日帝示威行列」だったとして、三・一運動の伝統で米ソ両軍同時撤退を実現させることが強調されたことは重要である。米ソ両軍同時撤退促成という在日朝鮮人運動の課題のなかで、三・一運動の号令が「朝鮮は朝鮮人の手に任せよ」だったとされ、その伝統を引き継ぎ、朝鮮民族の自主を掲げ闘争することが呼びかけられたのである。

 

―三・一運動の伝統と「統一民主政府樹立」を求める人民抗争への継承

 

 既に見てきたように1948年の三・一記念大会では、民族の自決権が強調され、単独選挙反対、米ソ両軍同時撤退、人民委員会への政権移譲、「朝鮮統一完全自主独立」/「統一民主政府樹立」が訴えられた。尹鳳求氏は東京の記念大会の演説にて、「わが国にどのような政権を作るのかという選択もひとえにわれわれの権利である」として、「わが民族はこの権利によってすでに解放直後に盤石のような決意を持って朝鮮人民共和国樹立に着手した」と述べた。また東京の大会にて発表された宣言においても、朝鮮本国の人民大衆が「人民の主権によって統一民主政府樹立を促成するため」に、「外国の干渉のない朝鮮人民自主自力による朝鮮民主人民共和国樹立の目標の下に全人民的抗争を展開している」ことが強調された。

 このように朝連は民族自決権に基づいて「統一民主政府樹立」、「朝鮮人民共和国樹立」を訴えたのである。朝連はそうした「統一民主政府樹立」の形態として、人民委員会を土台とした「朝鮮人民共和国」の樹立促進を訴え、南朝鮮と対称的に朝鮮人民共和国の基礎を形作ったものとして北朝鮮人民委員会や憲法草案(194827日に北朝鮮人民会議が討議の実施決定)、朝鮮人民軍創設(1948.2.8)の意義を強調した。実際に三・一記念日である194831日に、朝連は「朝鮮完全自主独立を戦取しよう!!」という檄文を発表し、「われわれは二十九年前の今日の情状を追憶し、新しい固い決心で本国の父母、きょうだいと同じ祖国自主独立完成に決起しましょう」と呼びかけ、次のように訴えた。

 

われわれは今まで米ソ共委が成功し、われわれの要望と創意で誕生した「朝鮮人民共和国」が両国の厚い援助で生々と発展することを期待もし、努力もしてきました〔中略〕同胞たちよ!解放直後、われわれはわが国を「朝鮮人民共和国」と決定し、地方行政機関である「人民委員会」も三千里江土坊々谷々に組織しました。その後、北朝鮮ではあらゆる民主課業計画が成功し、「朝鮮人民軍」の創設をみて「憲法」草案も完成し、朝鮮人民共和国の基礎が確立されました南朝鮮では北朝鮮と異なり、政権を軍政が執り「朝鮮人民共和国」の主権行使を否認したため親日派、民族反逆者、中間機変主義徒輩たちの「南朝鮮単独政府」樹立陰謀だけが日々露骨化し、人民たちの要望である朝鮮人民共和国の建設課業は抑圧されています〔中略〕祖国の血沸く青年たちは「朝鮮人民軍」の兵士となり、またはあらゆる人民抗争の先鋒で闘っています。同胞たちよ!日本に生きる同胞たちよ!われわれはどうして祖国独立のこの機会に無関心でいられましょうか?

 

 このように朝連は三・一記念日を機に、北朝鮮では「朝鮮人民共和国」の基礎が完成し、南朝鮮では米軍政によって「朝鮮人民共和国」の「建設課業」が抑圧されていると訴え、在日朝鮮人も朝鮮本国の人員抗争に呼応することを呼びかけたのである。


1948年3月1日檄文 

 三・一記念を機に「新朝鮮建設」、「人民共和国」の重要性が強調されている点は、解放直後から一貫していたといえる。たとえば、朝学同兵庫は1948年の三・一記念日に機関紙に寄稿を掲載し、三・一運動が「日本軍事的、封建的帝国主義への抗争」だったとして、「吾々は三一運動を新しきものへの飛躍への糧とし、祖国朝鮮の建設に邁進すべきである」と訴えた。

 しかし、こうした朝鮮と日本における米ソ両軍同時撤退促成、単独選挙への反対闘争に反して312日に国連臨時朝鮮委員会は、構成国の半数の賛成によって正式に国連小総会決定を承認し、南朝鮮単独選挙実施を公式化した。こうして朝連の米ソ両軍同時撤退促成、南朝鮮単独選挙反対、統一民主政府樹立を掲げた活動は、北朝鮮民戦の提議を受けた全朝鮮諸政党社会団体代表者連席会議の支持へと至り、朝連による単選単政反対救国闘争委員会の結成と単選単政反対救国闘争人民大会の開催へと発展することとなった。

 こうしたなか三・一運動の伝統を継承した闘争が連席会議、統一政府樹立を求める闘争に発展したと強調された。前述した「三・一の史的意義と今日の課題」という論文において李卿勲氏は、「この聖なる三・一以来の歴史的事業が果たして予期された通り進んでいるか?私は率直に南鮮に限っては否定せざるを得ない」として、日帝残滓と封建的地主制の温存を挙げた後に、次のように指摘した。

 

主権が人民にない。言い換えれば軍政が、唯一の政権機関だということだ。これは解放直後である九月六日誕生した南北鮮を通じた人民主権の行使形態である朝鮮人民共和国を解散させたという点だ。〔中略〕ここでむしろ軍政があったため民主朝鮮建設を阻害する障害となっている以上、両軍の即時同時撤兵問題が必然的に提起される主体的条件とならざるを得ない〔中略〕このように歴史的課業を解決するための決定的時期にまで推進された三・一伝統の闘争は朝鮮民主政党・社会団体連席会議の開催の段階にまで至らしめた〔中略〕三・一血闘の歴史的伝統と教訓の蓄積された成果はその決定的段階に入り、朝鮮完全自主独立と民族の完全な解放を戦取する歴史的課業は北南統一政府を樹立する闘争に集中している

 

 このように三・一運動の伝統を継承した闘争が連席会議の開催に至らしめたこと、そうした三・一運動以来の歴史的課業が「北南統一政府」の樹立であることが強調されたのである。こうした連席会議を支持し、「統一民主政府樹立」、「朝鮮人民共和国樹立促進」を求める活動は、第二次連席会議と北朝鮮人民会議が決定した8月選挙の支持、朝鮮民主主義人民共和国樹立の支持に繋がることとなった。

 

―三・一記念闘争と民族教育権を守る運動

 

 1948年の三・一記念大会は、GHQ・日本政府による民族教育弾圧が進められるなか、民族教育権(「朝鮮人教育自主権」)を守る運動の場ともなった。

 GHQ1947年以降、朝連の民族教育活動に対して規制・弾圧的な姿勢を示した。とりわけ大阪軍政部は19476月頃から朝鮮学校に対する実態調査を実施し、民族教育に対する否定的見解を露骨化していった。こうして1948124日にはいわゆる「一・二四通達」が出され、朝鮮学校の強制的閉鎖、弾圧の意図が明確に示された。

 これに対して、その直後に開催された十三中委(12730日)において朝連は、日本政府が朝鮮学校の特殊性を認め教育内容と教育問題に干渉すべきでないという立場を決議した。その直後、朝連中総常任委員会は三・一記念闘争週間の方針において、「各地方の現在当面している諸般特殊問題についてそれを今回の週間活動に結びつけ、解決を期すること」として、その具体例として「大阪では教育問題を掲げ」ることとした。大阪地域だけが明示されたのは、大阪における民族教育に対する強硬的な弾圧姿勢がとりわけ際立っていたためであろう。

 そして216日には森部辰男文部大臣に対して、「一・二四通達」が「日本法令服従を口実に再び奴隷教育を強要するもの」として反駁する見解を通知した。さらに、全国各地方本部に対して三・一記念闘争と結びつけて、「民主教育強化対策」を急速に実践することを求め、教育路線確保のために闘う態度を明確にした。こうして、在日朝鮮人は民族教育弾圧に対する闘争を繰り広げるなか、解放後三度目となる三・一記念日を迎えることになった。

 三・一記念日当日には東京、大阪、京都、神奈川、静岡、埼玉など各地の記念大会にて「朝鮮人教育自主権」の認定、教育への不干渉を決議し、代表を派遣し当局と交渉を行ったことが確認できる。

 たとえば三・一記念日当日に、静岡では交渉委員5名が県庁・検察庁を訪れ夜8時まで当局と交渉を行い、神奈川では交渉委員が副知事と面会し交渉を繰り広げた。また東京の記念大会では、不当弾圧・民族差別的取締り・不当課税への反対、基本的権利の認定、在日朝鮮人の失業対策機関の設置要求と共に、朝鮮人の教育に干渉しないこと、朝鮮人の教育費の負担を求める決議文を採択し、日本政府に提出した。

 

―反帝闘争としての三・一運動

 

 米国が国際協調に基づいたモスクワ三相会議決定を一方的に破棄し、南朝鮮単独選挙の実施が目前となり、日本においてもGHQによって在日朝鮮人運動や民族教育に対する弾圧が続けられるなかで、朝連は米国・米軍に対する怒りを一層強め、反米姿勢をより明確にすることになった。こうしたなか1948年の三・一記念闘争において、三・一運動の歴史的意義が反帝国主義闘争への発展にあったことが強調されるようになった。

 朝連は三・一記念闘争週間方針において、三・一運動の歴史的意義に対する宣伝方法について次のように強調した。

 

祖国の現情勢が三・一革命より大きな全人民的大闘争が絶対に要請されているという点を自覚し、三・一革命の歴史的意義が反帝闘争、民族解放闘争にあったということを鮮明にするのと同時に、大衆をして三・一革命当時の先烈の革命的精神と遺志を継承するようにさせ、帝国主義勢力及びその走狗であり日帝残滓である国内反動勢力に対する敵愾心を腹の中から出させるようにし、かれらを徹底して掃蕩するための闘争意欲を高揚させること

 

 このように朝連は、1948年の記念闘争において三・一運動の反帝闘争という伝統、「精神と遺志」を継承し帝国主義勢力と闘うことを呼びかけたのである。実際に東京の記念大会で発表された宣言においても、三・一運動の歴史的意義が次のように強調された。

 

一九一九年三月一日は世界帝国主義勢力の一員である日本帝国主義に対して全民族をあげて展開された偉大な民族解放闘争の歴史的意義をもつ日である。全人民が永遠に記憶しなければならない三、一運動はその後二十九年の間に反封建主義、反帝国主義、完全自主独立のための闘争に成長して偉大な歴史的教訓と経験を生んだのみならず、今日世界的革命運動の最中において、内的には民族の解放に全人民的革命闘争の偉大な先頭をなし、外的には世界帝国主義打倒の革命的一環として、その歴史的意義を把握することが出来る

 

 1948年に至り朝連が米ソ両軍同時撤退促成を求め、反米姿勢を明確にするなかで、三・一運動の歴史的意義が反帝国主義闘争への発展にあったことが強調され、そうした教訓を活かし、現在の闘争課題となっている反帝国主義闘争に進むことが訴えられたのである。

 前述した「三・一の史的意義と今日の課題」という論文において李卿勲氏も、「〔日帝の植民地支配が〕本質的には世界帝国主義国家が世界被圧迫被搾取弱少数民族の植民地化掠奪過程の一方的方向である点を正確に把握することで、現段階の完全自主独立が遅延されていく理由と口実の本質を体得して確固たる信念を持つことになるだろう」と主張した。朝鮮独立の遅延をもたらした帝国主義国家・米国に対する批判が示唆されたのである。1948年に至り三・一運動の教訓として、反帝国主義闘争が強調されるようになるのは南朝鮮においても同様であり、南朝鮮労働党も三・一記念日に際して発表した呼訴文にて、三・一運動の教訓として「〔民族解放闘争の勝利は〕帝国主義者との無慈悲な非妥協的闘争によってのみ成就させることができる」ことを訴えていた。

 この後、朝連は米国に対する対決姿勢を鮮明化させ、十四中委(194841012日)では米国に対して名指しで明確に批判を加えるようになった。十四中委にて一般情勢報告を行った李心喆氏は開口一番に、「没落の末路を免れえない全世界の資本主義国家及び、言い換えれば反動勢力を援助し領導していく米国資本主義」が、その矛盾を回避するために「あらゆる謀略と策動」を示していると批判した。また民族教育弾圧に対してGHQと交渉を行った元容徳・朝連中総文教部長も、「かれらは米国の教育制度を強制的に適用」しようとしているとして、「その内容が森戸文部大臣の言葉と少しも違いがなくこれは教育問題のみに局限されるものではなく広範囲な民主主義に対するファッショ的弾圧の一環として表れたものだ」と批判した。こうして米国・米軍との対立関係が決定的な段階にいたるなかで、米軍占領下において名指しで米国に対する批判が提起されるようになったのである。


朝連十四中委 


 朝連は単独選挙・分断への反対、米ソ両軍同時撤退促成、国連臨時朝鮮委員会への反対と統一民主政府樹立という運動課題のなかで1948年の三・一記念闘争を繰り広げた。朝連は三・一記念闘争を通じて、民族教育権をはじめとする権利擁護運動を展開する一方で、朝鮮本国の緊迫した状況に呼応し、そうした運動課題を実践しようとしたのである。こうしたなか朝鮮民族の自決権と南朝鮮における米軍の朝鮮人民共和国・人民委員会・人民抗争への弾圧が強調され、三・一運動の歴史的意義と伝統が反帝国主義闘争にあったこと、それらが二・七救国闘争と統一民主政府樹立のための闘争に継承されていることが訴えられたのである。こうした朝連の反米・反帝闘争は、単独選挙の実施、李承晩政権の樹立という状況下で継続していったのである。 (誠) (四に続く)


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朝米の「膠着状態」と今後についての雑記

0.はじめに

 激動の2018年も終わろうとしている。史上初の朝米首脳会談、3回にも渡る北南首脳会談と歴史的「板門店宣言」と「9月平壌共同宣言」。まさに5000年の朝鮮民族史に類を見ない歴史的大事変が起こった年であった。

 去年と比べ余りに急速度で、時々刻々と進んできたため、10月以降続いている朝米関係の進展速度については「膠着状態」が続いていると見えるだろう。第二次朝米首脳会談や高官級会談も次々と延期された。

 この「膠着状態」の原因は何なのであろうか。
 12月以降の動きを少し追ってみることにする。ちなみに詳細については次の記事が参考としてまとまっているように思える。参考:韓浩錫「朝鮮はトランプ行政府の新しい提案を何故拒否したのか?」


1.11月29日のホワイトハウス閣僚会議

 2018年11月29日は、朝鮮が「火星―15号」大陸間弾道ミサイル発射成功で国家核武力を完成させた日からちょうど一年になる日で、この日にホワイトハウスの閣僚会議が招集されたという。ここで朝鮮に対する今後の対応方針が議論されたことが推測される。


2.12月3日の統一閣での非公開接触

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 米国中央情報局(CIA)傘下、コリア任務センター総責任者アンドリューキム一行が、朝鮮側の人士3~4名と非公開接触を持ったという。ワシントンの現地筋の発言等によると、この接触では、トランプ行政府が「非核化が実現するまで朝鮮に対する制裁を変化なく維持する」という従来の方針から「朝鮮が非核化の実現のための『誠実な措置』を取るならば、それに相応して制裁を緩和することができる」へと変化が見られる「新しい提案」だったという。そして、この「誠実な措置」は、朝鮮が寧辺核施設団地を廃棄して視察を許容するという内容もしくは、朝鮮の核物質の一部を国際原子力機構(IAEA)へ申告することであるであるが、朝鮮の核物質は寧辺核施設団地で生産されるので、実質は、「寧辺核施設団地を廃棄して視察を許容する」ことを指すようだ。11月29日の閣僚会議はどうやらこの方針が議論されたようだ。
 しかしながら、それは第二次朝米首脳会談開催の展望が未だ見えていないことから、この「新しい提案」は朝鮮によって拒否されたという見方が強い。
 朝鮮が何故拒否したのか。
 それは、朝鮮がシンガポール首脳会談後にとった様々な善意ある措置に相応する形で制裁を緩和しなければならないからと考えているからであり、更なる善意ある措置=「寧辺核施設団地を廃棄して視察を許容する」によって制裁を緩和するとは考えていないからである。
 すなわち、朝鮮がトランプ行政府に要求しているのは朝鮮と米国が同時的に、対等に、段階的な措置を実行して朝鮮半島の非核化を実現しようとしているのであり、これが現実的で合理的な原則であるということである。
 この原則的な立場から見ると、アメリカの「新しい提案」は裏を返すと、シンガポール会談後の朝鮮がとった善意ある措置を、アメリカが認定しないと言っているに等しい。


3.12月5日もしくは6日のホワイトハウス閣僚会議と12月10日の追加制裁

 アメリカの「新しい提案」を拒否した朝鮮に対して今後の方針についてまたもや閣僚会議がなされたと推測される。ここでは強硬派のボルトンやマティスを筆頭に、「新しい提案」を拒否したことは「朝鮮は非核化の意志がない」ということであり、より強固にでるべきだという主張と、それでも自身の外交成果を残したトランプ大統領の考えとで割れたが、結果は12月10日、サイバー攻撃や人権侵害といった理由を根拠に朝鮮労働党の高位人物3人に対する追加制裁という形で表出することになった。


4.12月13日、朝鮮の見解①

 12月13日、サイト「我が民族同士」に個人筆名「チョンヒョン」の論評「時間はアメリカの愚かさを気付かせてくれるだろう」が掲載された。すごく明快な文章なので全文を読んでいただくことをオススメしたいが、以下に簡単にまとめることにする。

 論評では、現在朝米関係は「膠着状態」にあるとし、その原因がアメリカであるとした。朝鮮だけ動いて、アメリカは何もしていないからだと。朝鮮が先制的に動いた非核化措置の一つ一つが、アメリカにとって歓声をあげるほどの「プレゼント」であったと。論評によると、この「プレゼント」は、①核と弾道ミサイルの脅威に怯えなくてよくなったこと、②数十年間眠ったままだった米軍遺骨の返還等を指しているが、アメリカはこの「プレゼント」をもらっているにも関わらず、朝鮮が何も動かなくて残念だと言いはっている。制裁措置を解除するには、朝鮮の「対応措置」が必要であり、むしろアメリカがより多くのことをしてあげたと言っているが、一体何をしてきたというのか、と論評は言う。
 第二次朝米首脳会談の開催条件として、核申告書を要求しないと譲歩したことが、アメリカ側がとる「措置」などにはなり得ない。朝鮮に借りがあるのはアメリカだし、ボールを渡されているのもアメリカである、この「膠着状態」の出路は、朝鮮が取った「措置」に対してアメリカ側が「相応の措置」を見せるべきだと明確に言う。
また、過去行政部の失敗を繰り返さないとして制裁措置を継続すると言っているが、制裁措置の継続で朝鮮が屈服するとまだ思っていること自体が愚かであると、米国務省を批判している。また、冒頭ではホワイトハウスの補佐官、議会の政客、ポンペオ国務長官、マティス国防長官、ムニューシン財務長官を同じ文脈で批判している。
 論評は、最後に朝米関係改善と制裁圧迫は並行できないとし、時間はアメリカの愚かさを気付かせてくれるだろうと締めくくっている。


5.12月16日、朝鮮の見解②

 12月16日には、朝鮮中央通信に、朝鮮外務省米国研究所政策研究室長の談話(URLは飛べないので朝鮮中央通信HPを参照)を発表する。
 
 談話では、時代の情勢に逆行して対朝鮮敵対行為が絶えず働かされていることに対して、憤激を禁じえないとし、米国務省と財務省を批判、また10日の追加制裁に対しても触れている。13日の論評に比べ、トランプ大統領と米国務省の差を明確にし、米国務省を批判している。
 また、根深い朝米間の敵対関係が一朝にして解消されないことを承知の上で、信頼醸成から一つずつ段階的に改善していくことを改めて主張し、追加制裁のような不信感しか情勢しないようなことを繰り返すなら、朝鮮半島の非核化へ向かう道は永遠に行き詰まると警告した。また、「最大の圧迫」が通じないことを改めて強調し、シンガポール共同声明履行の誠実な履行を求めた。
 朝鮮はアメリカの追加制裁に対して、直接的な報告ではなく警告のレベルに留めた。これらの原因は様々あるだろうが、トランプ大統領を取り巻く国内葛藤を冷静に分析し、今後を見据えた上での判断であったように思う。朝鮮はそれでもなお、シンガポール共同声明は破綻されておらず、その線上で今後が展望できる可能性があると見ているのであろう。閣僚会議内でも難しい立場にあるが、トランプ大統領のある意味「勇断」=「制裁緩和/解除」を、じっと待っているのである。


5.12月20日、朝鮮の見解③

 12月20日、再びサイト「我が民族同士」に個人筆名「チョンヒョン」の論評「古い道で障壁にぶつかるより新しい道を探すのが良い」が掲載された。

 この論評ではまず、アメリカの朝鮮半島非核化に関する誤った認識を指摘する。シンガポール共同声明の原文に書いてある通り、「朝鮮半島非核化」は「北非核化」ではないというあまりにも自明のことを誤った形で誘導していると指摘し、そもそもこれが悲劇の出発点であったと指摘している。またここでは明確に、「朝鮮半島非核化」は、アメリカの核武器をはじめとする侵略武器を展開している南朝鮮地域を包括しており、朝鮮半島周辺のすべての核威嚇要因を除去することを意味していると述べている。よって、この「朝鮮半島非核化」は朝鮮とアメリカが一緒に努力しなければ絶対になし得ない共同作業であると強調する。また、「北非核化」だけを為すということは、アメリカの核先制打撃対象の第一位である朝鮮がただただ無防備状態になるということで、危機が到来することは自明であるとした。
 また制裁について、それ自体が怖いのではなく、制裁緩和/解除そのものがアメリカの真情性を判別できる試金石であると述べた。論評では、最後に、「北非核化」という妄想を捨ててだけ道が見えるとしながら、タイトル通り、古い道で障壁にぶつかるより新しい道を探すのが良いと締める。
 いたって真っ当な論評である。


6.12月21日、米「韓」作業部会

 12月21日、米国のビーガン北朝鮮(ママ)担当特別代表と李度勲朝鮮半島平和交渉本部長との間に作業部隊が開かれた。(この米「韓」作業部会自体が、我が民族同士の平和推進のスピードにブレーキをかけるような役割をしているようにしか見えないのだが。)ビーガン代表は独自制裁や国連制裁を緩和するつもりはないとする一方で、人道支援を拡大するなどの信頼構築のための措置を講じる用意があるとし、また北南鉄道道路連結事業の着工式の際の制裁例外措置を確認したとされる。
 このような態度そのものが、アメリカに取っての「誠意ある行動」とでも言いたいようであるが、朝鮮はこの程度を「誠意ある行動」とは見ないであろう。


7.終わりに

 とりわけ、12月以降の動きと朝米双方の主張について簡単に見てきたが、この「膠着状態」の原因は間違いなくアメリカにある。  「朝鮮半島非核化」を「北非核化」にすり替え、6.12後の善意ある朝鮮側の「対応」を過小評価し、自分たちは何もせず(米「韓」合同演習の中止・縮小や、制裁の例外化などはアメリカの「行動」とはとても言えない)、更なる「対応」を要求する。ボールを持っているのはアメリカであるのに、さらなるリアクションを求めようとする。幼い子供でもわかるようなことを、永遠と繰り返しているのである。
 朝鮮は原則を少しも曲げていないし、善意ある「対応」をした。朝鮮は、米国内葛藤までも見据えながら、「アメリカの誠意ある対応」=「制裁緩和・解除」をじっと待っているのである。そしてそれを、トランプ行政部の周囲の閣僚ではなく、トランプ大統領本人に、その「勇断」をじっと待っている。第二次首脳会談はその兆しが少しでも見えた時にやっと実現が近づいてくるように思てる。

 この朝米の「膠着状態」だけをもって、朝鮮民族の未来を悲観するのもそれはそれでまだ早い。2018年前半~中盤にかけて猛スピードに比べては劣るが、それでもなおシンガポール共同声明の精神に沿って、試行錯誤を繰り返せてはいる。70年にも渡る悲劇の根本原因が即日解決されるのは難しくて当たり前なので、私たちもその動きにじっと見守るだけではなくて、まさに我が民族同士の力で朝鮮半島の真の平和と統一、非核化に向けて運動を推進していかなければならないと感じている。(洪)

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愛知朝鮮高校無償化裁判控訴審から再度高校無償化裁判について考える

 2018年12月12日、愛知朝鮮高校の生徒・卒業生らが起こした「朝鮮高校生就学支援金不支給意見損害賠償請求訴訟」(2013年1月24日)の控訴審が行われた。今年4月27日に名古屋地方裁判所において、不当判決が下された後1回目となる口頭弁論であった。

 法廷では原告の意見陳述、代理人の要旨陳述が行われた。原告は、地裁判決で「朝鮮学校に無償化制度が適用されなくても、単にお金がもらえないだけで、民族教育を行う自由や学ぶ権利を侵害しているわけではない。」と言われたことに対して、学生たちの姿に目をくれず、お金の問題として片付けたことに強く憤りを感じており、生徒たちが学力や人間力を育む勉強や部活の時間を削って、街頭宣伝や署名活動を行っている現状をみても、民族教育を受ける権利や学ぶ権利を侵害していないと述べたことは、原告たちだけでなく、裁判所を信じて頑張る朝鮮学校の生徒たちの姿をも否定したのだと述べた。
 地裁判決は、朝鮮学校に存在する政治的な部分を挙げ連ねて、朝鮮総連から「不当な支配」を受けているという「疑い」を認定し、無償化制度からの排除を正当化した。今回の意見陳述では、この地裁判決には朝鮮は独裁者が核開発に走っている危険な軍事国家であり、朝鮮総聯も日本社会を脅かすような反社会的な団体という価値観が根底にあるのではないかと指摘した。また、日本社会の現状は、朝鮮や朝鮮総聯をバッシングする報道ばかりであり、そのような社会の中で朝鮮学校だけが、朝鮮という国のあり方やリーダーはどんな人物なのかを朝鮮の視点も含めて教えてくれる。そして、このような社会の状況の中でも、朝鮮人として生まれたことをまっすぐ見つめ、生き方の選択の機会を与えてくれる場所であり、地裁判決では、日本の学校にある自由が朝鮮学校には存在しないというように述べていたが、それはむしろ逆で、朝鮮学校で学ぶことで精神的に自由になれると述べた。最後に、今一度私たちの声に耳を傾け、姿を見て、朝鮮学校と、学生たちと真摯に向き合うことを裁判所に求めた。
 代理人弁護士の要旨陳述(控訴理由書、準備書面1、準備書面2)では、国側が朝鮮学校を不指定処分とした理由である①省令ハの削除、②愛知朝鮮高校の2012年度の教員数が規程6条の必要教員数に満たないこと、③愛知朝鮮高校が規程13条に適合すると認めるに至らなかったことを挙げながら、規定6条と規定13条は省令ハに基づく指定の基準を定めた下位法令であり、省令ハが削除されるとその存立の基礎を失うため、論理的にこの3つの処分理由は両立しえないことを指摘した。
 そして、省令ハの削除と本件規定に基づく不指定理由のどちらが有効な処分理由となるかは、省令ハの削除の効力発生時期と本件不指定処分の効力発生時期との時間の先後関係により決まる。省令ハを削除する改正は2013年2月20日に公布、施行され、その日に効力が発生するが、本件不指定処分は、2013年2月20日付の愛知朝鮮学園に対する行政処分であり、特定の相手に対して行われる行政行為は、一般的に告知により効力を生じるものとするため、本件不指定処分の効力が発生したのは、書面が学校に到着した日であることは間違いない。(発送日が2013年2月20日であるため、到着した日は2月21日以降である。)これは、最高裁を含めた判例、通説の一致した見解である。そのため、本件不指定処分の効力が生じた時点では、省令ハは削除されているため、愛知朝鮮高校が規定13条に適合すると認めるに至らないと言う理由に依拠して本件不指定処分を適法とした地裁判決が論理的に誤っており、省令ハの違法性が審査されなければならないということを指摘した。
 そして、省令ハの削除は、高校無償化法による委任の範囲を逸脱する違法な措置であり、高校無償化とは無関係な拉致問題や、朝鮮民主主義人民共和国及び朝鮮総連との関係から朝鮮高校を無償化から除外すべきという政治的考慮に基づくものであると述べた。
 また、地裁判決では、本件省令ハの削除は、朝鮮高校に対する差別感情を助長させる効果は認められないとし、人格権侵害を否定したが、高校無償化から朝鮮高校生を除外する国の一連の行為の後、インターネット上で朝鮮学校に対するヘイトスピーチが顕著に増大したことを指摘し、裁判所にヘイトスピーチを一覧にして別紙として控訴理由書に添付した。その他にも、名古屋大学の石井拓児准教授の意見書を引用し、愛知朝鮮高校が教育基本法16条1項の禁ずる「不当な支配」を朝鮮総聯から受けているなどの疑念があるとして、教育内容にまで言及した地方判決は、規定13条及び教育基本法16条1項に対する解釈の誤りだと指摘。教育基本法16条1項は、「教育の中立性」を命じているのではなく、「教育の自主性」を歪めるような「不当な支配」を禁じており、この存在事実は、教育主体である学校・職員等の当事者によってのみ具体的に示すことができるものであるとした。そして、教育内容に干渉するということは、私立学校の独立性に国が関与するということであり、「日本の教育」を根本的に揺るがしかねない判決だと述べた。

 改めて愛知の地裁判決を振り返りながら、国側の理由は論理として全く成り立っておらず、意味不明な反論をしていることは顕著である。それにもかかわらず、地裁判決は薄弱な根拠に基づく事実認定と、教育法に対する誤った理解によって国側の判断を追認している。このように明らかな不当判決を認め、当たり前だと思うこの日本社会の現状に我々は危惧しなければならないし、危惧している在日朝鮮人、日本人が少なすぎると私は思う。在日朝鮮人が日本で民族教育を受けることを阻まれ、朝鮮人として生きることを否定されるようなこの社会で、朝鮮学校に通う子ども達が、在日朝鮮人が、人間としての権利を取り戻すために、まずは世論を変えていかなければならない。そのためにはもっともっと声をあげ、抵抗しなければならないし、私自身、人間としての権利を取り戻すために抵抗し続けることを誓い、終わりたいと思う。(純)

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※名古屋高等裁判所への前川喜平元文部科学事務次官の証人採用と公正公平な裁判を求める「はがき要請」活動にご協力ください。

※※ネット、紙での署名活動も行っているため、ぜひご協力ください。
・ネット署名
・紙署名

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三・一運動100周年と在日朝鮮人―朝連の三・一記念闘争と三・一認識(二)

朝連の三・一記念闘争と三・一認識(一)


2.1947年の三・一記念闘争

 

―朝連の臨時政府樹立促成:「人民の人民のための人民政府の樹立運動」


 既に見てきたように、朝連の三・一記念闘争、三・一認識を論じる上で、在日朝鮮人運動の課題や建国路線の検討は欠かせない。朝連はこの時期、米ソ共同委員会に基づく朝鮮臨時政府樹立のための運動を展開した。たとえば「新朝鮮建設」、朝鮮人民共和国支持、モスクワ協定支持を掲げた朝連は1946610日には大規模な臨時政府樹立促成のための人民大会を開催した。この大会で発表された「宣言」では、「朝鮮建国の唯一の目標は封建主義を排除した自由と権利が保障される人民共和国」であること、大地主、大資本家だけの利益を代表する「専制政府樹立」と「人民の人民のための人民政府の樹立運動」を破壊しようとする動きがあること、そのため「連合諸国の友好と協調下に一日も早く民主主義臨時政府を樹立するよう奮闘、努力すべきである」ことが呼びかけられた。朝連は「専制政府樹立」に反対し、「人民の人民のための人民政府」を樹立するために、米ソ協調に基づいた臨時政府樹立促成を極めて重要な課題としていたのである。

 こうした活動のなかで朝連は朝鮮人民共和国を支持し、朝鮮人民委員会への政権の移譲を訴えた。朝連は194696日に開かれた人民委員会誕生一周年記念式に本国特派員として金正洪氏を派遣した。金正洪氏が祝辞を述べた後に採択された決議文では、日帝残滓の精算、土地改革・重要産業の国有化・労働法令制定・男女平等法の実施、「軍政は政権を人民の自治機関である人民委員会に渡すよう要求する」こと、逮捕者の釈放を要求することなどが決議されたという。そして朝連は解放後二度目となる三・一記念に際しても、檄文にて「朝鮮の政権を人民委員会に渡せ」という要求を掲げたのである。

 このように朝連は親日派を除外した勤労人民が主体となる民主主義臨時政府の樹立を目指し、日帝残滓の掃蕩や土地改革をはじめとする社会改革を要求した。朝連婦女部、婦女同盟などの解放直後の在日朝鮮人女性運動も、民族解放/階級解放/女性解放を連関させ、同時遂行すべき課題とした本国の女性運動と連携した活動を展開した。

 なおこの時期、三・一と同様に六・一〇も民族解放運動の記念日として重視されていたことが確認できる。たとえば、「血に彩られた朝鮮解放史」という記事を機関紙にて連載した劉宗煥氏は「朝鮮の解放運動史を語る場合、忘れることの出来ない二つの大きな事件がある、三・一革命と六十革命がそれだ」と強調した。また『民衆新聞』も「この人民大会を六月十日に挙行することも大きな政治史的意義がある」として、「三一運動が朝鮮の民族ブルジョワジーたちを中心とした自然発生的闘争だとすれば、六十万歳事件は朝鮮プロレタリアートのイニシアティブ(創意)に起因した目的意識的政治闘争だった」と主張した。

 

―南朝鮮/日本における米軍の占領政策と在日朝鮮人


 それでは解放後二度目の三・一記念日を前に、在日朝鮮人運動はいかなる課題に直面していたのだろうか。解放後、南朝鮮を占領した米軍は日帝支配下の既得権層である親日派官僚、警察、地主を温存し、朝鮮人民共和国・人民委員会、左派を弾圧した。米軍政は占領直後に朝鮮人民共和国を否認・弾圧し、第一次米ソ共同委員会の決裂後に精版社偽札事件(1946年5月)を捏造し、共産党を一層非合法化していき、1946年9月には左派系新聞を停刊させ、共産党の指導者であった朴憲永に逮捕令を出したのである。

 こうした米軍政による占領政策、親日派官僚・警察の温存と左派・人民委員会弾圧は朝鮮民衆に大きな怒りを募らせることになる。とりわけ深刻な食糧難のなか行われた親日派警察による穀物の強制供出に対する朝鮮民衆の憤怒は極めて激しかった。

 こうしたなか9月ゼネスト・10月抗争が発生する。1946923日には釜山の鉄道労働者が大規模なゼネストを起こし、南朝鮮全域にゼネストは爆発的に拡がっていった。そして、101日に大邸にて起きた警察の発砲事件を契機として、人民委員会が強力だった地域を中心に各地で朝鮮民衆の抗争が拡がっていった。この抗争は米軍政の占領政策の失敗を浮き彫りにした一方で、抗争に対する弾圧によって人民委員会の破壊と右翼・警察勢力の強化は決定的なものとなった。

 朝連はこうした南朝鮮の状況に呼応し、弾圧への反対、人民抗争の支持、人民委員会への政権移譲要求を掲げ、逮捕者釈放要求などの活動を行った。精版社偽札事件の後に『民衆新聞』は「不法弾圧による民戦犠牲者即時釈放」を掲げるようになり、19471月に開かれた第九回中央委員会で朝連は「臨時政府樹立促成対策」として「人民抗争による犠牲者の家族を救援し、死刑を絶対に反対すること」を活動方針として可決した。

 たとえば金天海氏は談話を通じて9月ゼネストの直後に、ゼネストは「独立すなわち朝鮮人民の要求である軍政から人民委員会へ政治を渡せという朝鮮民族自由独立と関連がある全民族的要求の表現」であるとし、10月抗争の際には「この全責任は警察と李承晩系及び反動団体の反人民的、背民族的行動にありこれは正に朝鮮軍政当局の責任だ」と訴えた。9月ゼネスト・10月抗争の原因を米軍政の占領政策に求め、これに対して批判を加えたのであった。なお朝連は九月ゼネストと十月抗争を一連のものと捉えており、「九、十月事件」、「人民抗争」、「ゼネスト」などの表現をあまり区別せず使用していたことが確認できる。

 一方、日本を占領していたGHQは日本政府による在日朝鮮人に対する取締りの強化、弾圧を認め、在日朝鮮人運動に対する強硬姿勢を示し、194611月には引揚げを拒否する朝鮮人は朝鮮政府の樹立まで日本国籍を保持するという見解を発表する。また進歩党代議士の発言(19468月・「椎久発言」)をはじめとする朝鮮人に対する偏見・憎悪の煽動、国会による日本国籍保持論の公言(19469月・「吉田発言」)、大阪居住証明問題(大阪府が独自で在日朝鮮人に対する監視・取締り強化のため実施)など、この時期、在日朝鮮人の法的地位、生活権は危機にさらされていた。


『解放新聞』警察写真  

※『解放新聞』1946年10月15日付写真


 こうした一連の法的地位、生活権の侵害に対応するため、朝連は19461110日に在日本朝鮮人生活権擁護委員会を結成し、1220日には朝鮮人不法弾圧に抗議するための大規模デモ行動を繰り広げた。しかしこのとき、首相官邸前で警察とデモ参加者の衝突が発生し、大会決議文を携行した十名の交渉委員が逮捕されるという「十二月事件」が発生した。その後、GHQ1947219日に在日朝鮮人の要求を受け入れることなく、南朝鮮送還を条件とした釈放を発表した。

 こうして十月抗争、十二月事件をはじめとする弾圧への対応、犠牲者・逮捕者に対する釈放要求運動が現実の焦眉の課題となるなかで、三・一記念闘争が展開されることとなった。

 

―三・一記念闘争の方針と準備過程


 朝連は194712829日に行われた第九回中央委員会にて、記念闘争方針を決定した。朝連は解放後二度目の三・一記念日を前に、在日朝鮮人の現実の課題と結びつけて運動を展開することを強調し、記念闘争を繰り広げた。実際に闘争方針では、「日帝の残滓勢力掃蕩」/「在留同胞の民主主義路線への民族統一」/「本国民主臨時政府樹立促成」などの当面の現実の闘争と結びつけて展開すること、十二月事件及び南朝鮮人民抗争における犠牲者釈放運動、生活権擁護闘争などの現実の闘争と結びつけて活動を行うことを掲げた。そして三・一記念闘争の目標として「三・一の革命的伝統を正当に継承して未完成なその偉業を完遂させる闘争と日常闘争とを結びつける」ことを強調した。

 さらに、三・一運動の意義を在日朝鮮人に伝えるため、三月一日以前に各組織別に講演会、研究会、記念出版機関紙などを通じて三・一運動当時の祖国の惨状、運動の経過、その犠牲と闘争の成果などを宣伝した。実際に朝連東京は講師団を組織し、2月中に傘下各支部を巡回して、三・一運動の意義を宣伝した。

 朝連は1947年の記念闘争において、十二月事件をはじめとする弾圧事件、取締り強化を受け、1946年の記念闘争よりも「規律と統制」の厳守、法的手続きの「履行」などを強調した。九中委方針ではGHQに記念闘争の趣旨を理解させ、記念集会や示威行進に関する法的手続きを正確にすることを決定した。その後朝連中総は闘争方法として、屋外集会や街頭デモを行うときは行進の指導部を編成・配置し「規律と統制を厳守する」こと、「たとえば十二月事件のような敵の挑発にのらないこと」、「法的手続を完全に履行する」こと、不祥事を起さないため始めからトラックを使用しないこと、「今度の闘争は慶祝的な気分にながれまた興行、娯楽的におちいることのないよう」に徹底することを決定した。1946年の三・一記念日から一年を経た1947年に、在日朝鮮人は厳しい警戒のなかで三・一記念日を迎えなければならなかったのである。

 また朝連は在日朝鮮人に対する取り締りが強化され、十二月事件直後という状況下で日本の革新勢力との提携をより重視し、革新勢力に対する宣伝活動をより強調するようになる。実際に九中委では、「十二月事件を契機として日本の民主戦線と密接な連携性を持つようになり不当弾圧反対の協同闘争が展開されている」ことが報告されていた。こうしたなか朝連は三・一運動/記念闘争の意義を「日本友好団体及び進歩的人民大衆に認識、普及させるよう努力すること」を方針として決定した。

 そして朝連中総は213日に文教局にて、「三一運動二十八周年記念闘争協議会」を構成し、218日の協議会では記念日当日の具体的な方針を決定した。この協議会は朝連のほか、在日本朝鮮民主青年同盟東京本部、在日本朝鮮学生同盟関東本部をはじめとする20を越える諸団体によって構成されていた。また東京のほかにも2月下旬ごろに各地で三・一記念行事準備委員会などが構成され、三・一記念大会の準備が進められた。

 

―三・一記念大会


全体 

 こうした方針、準備のなか、在日朝鮮人は解放後二度目となる三・一記念日を迎えた。この日、東京(日比谷公園音楽堂前、15千名)、三多摩(立川病院大講堂、千名)、千葉(旧日立航空会館、15千名)、神奈川(横浜公園米軍野球場、5千名)、長野(長野市城山国民学校、千二百名)、静岡(朝連静岡本部前広場、3千名)、石川(金沢市公会堂、2千名)、大阪(中之島中央公会堂、2万名)、京都(京都円山公園音楽堂、1万名)、滋賀(大津中央国民学校講堂、1万名)、福岡(福岡市東公園広場、7千名)、新潟・信越(高田市大町国民学校講堂、7百名)、愛知(東本願寺別院、1万)、鳥取(米子市角盤町吉万国民学校、7百名)、兵庫(2万)、三重(千名)、岐阜(全市公会堂)、山口(山口市湯田公園)など各地で記念大会が開催された(※参加規模は報道によって若干異なり、機関紙の記述を優先した)。また朝連中総は府中刑務所で三・一記念日を迎える在日朝鮮人230名のために三・一革命記念式を開催したという。

 記念大会は地域や報道によって名称が異なり、「三一運動二十八周年記念大会」、「三一運動記念人民大会」、「三一革命記念大会」などの名称で開催されていたことが確認できる。


会場入口 


 1947年の記念闘争において特筆すべき点は、三・一運動と十月抗争との「相似性」が強調され、記念大会にて日本と南朝鮮のそれぞれで起きている弾圧事件について、米軍に対して共に「嘆願」、「陳情」が行われたことである。朝連中総は記念日を迎えるにあたって闘争方針として、米軍に対して①南朝鮮ゼネスト及び十二月事件逮捕者釈放要求嘆願書の提出、②臨時政府樹立促成を要求することを掲げていた。

 こうした方針の下、記念日当日には各地で緊急動議にて、十二月事件及び十月抗争逮捕者のためにGHQに対して「嘆願」・「陳情」を提出することを決定し、臨時政府樹立促成を求めた。実際に、京都では十二月事件逮捕者本国送還反対、本国臨時政府樹立促成、南朝鮮人民抗争指導者釈放の嘆願書を提出すること、千葉では十二月事件逮捕者強制送還反対、南朝鮮人民抗争逮捕者釈放の陳情書を提出すること、三多摩では十二月事件逮捕者の無罪釈放嘆願書を提出すること、愛知では十二月事件逮捕者の強制送還に反対する陳情書を提出することなどが緊急動議にて決定されたことが確認できる。

 朝連はモスクワ協定に基づいた米ソ共同委員会の成功、臨時政府樹立促成のため活動のなか、弾圧事件に対して「嘆願」、「陳情」という形で米軍と交渉しなければならなかったのである。

 また「陳情」、「嘆願」を行うのみならず、逮捕者を直接的に支援するための救援金を記念大会にて集めた地域も存在した。たとえば長野の記念大会では、緊急動議にてGHQに対する逮捕者釈放の陳情書提出、及び逮捕者救援金の募集が可決され、その場で344235銭が集められた。三・一記念大会が十二月事件の犠牲者救援運動と結びつけられていたことがわかる。

 すでに見てきたとおり朝連はこの日、徹底した警戒と監視のなかで記念大会と示威行進を行わければならなかった。たとえば大阪では、会場や示威行進のルートに約560名の警官が動員されたという。また東京の示威行進にて、当日使用されたと思われる行進の経路が書かれた資料にも、厳粛に行進するよう強調されていたことが確認できる。


警視庁前  


―三・一運動の失敗原因、その歴史的教訓


 朝連中総は三・一運動28周年記念日に先立って「在日六十万同胞に激す」という檄文を発表し、三・一運動に関する見解を明らかにした。この檄文は、三・一運動の失敗原因と教訓について、朝鮮共産党が解放後初めて迎える三・一記念日に際して機関紙『解放日報』にて発表した「三一記念日に同胞に告す」(1946.3.1)という文と基本的に全く同じ内容になっている。朝連中総は公式見解として、三・一運動の失敗原因、その歴史的教訓に関する認識について朝鮮共産党の上記資料を参照したようだ。

 朝連中総はこの檄文を通じて、三・一運動の失敗原因、その教訓について、朝鮮共産党(南朝鮮労働党)と同様に次のような認識を明らかにした。まず、三・一運動が失敗した原因について、客観的理由として、①日帝の第一次世界大戦後の国際的地位の上昇、②国際勢力の相対的脆弱性と参戦代償としての日帝の朝鮮支配の支持、③ソ連・中国が朝鮮を援助しうる国際的地位におかれていなかったこと、④以上の理由よりベルサイユ講和会議にて列強が日本の主張をそのまま受け入れたことを挙げた。次に主観的理由として、①労働者階級の未成熟と地主・資本家階級の観念的・妥協的態度、②「革命的中心指導体」の不在によって闘争を目的意識的・組織的に指導しえなかったこと、③民族解放闘争と土地問題の結合の不在、④「平和的方法」を掲げ労働者・農民の戦闘力を妨害した「指導部」の武力戦術の放棄を挙げた。

 そして三・一運動の教訓として、①民族解放運動を指導する「革命的中心指導体」の必要性、②資本家・地主の指導は信じられず朝鮮の完全独立は「戦闘的な革命階級」の力によってのみ遂行されること、③外勢依存の考えを捨て組織的な自力で独立を達成しなければならないこと、④農民解放のための土地問題を解決しなければ農民を動員しえないこと、⑤戦闘的革命理論の必要性、⑥いかなる階級が民族解放を導きうるかがはっきりしたことを挙げた。これは一部項目が省略され、字句が修正されている箇所はあるものの、朝鮮共産党の上記資料を参考にしたものと思われる。

 

―三・一運動を継承、発展させなければならない「冷厳な現実」


 この檄文の異なる点は、前文にて「在留同胞諸君!」という呼びかけが加えられ、解放後二度目の三・一記念日を迎えるなかで三・一運動当時の犠牲者のみならず「解放後わが祖国の人民による人民のための民主主義国家建設を目標に闘い、日帝の残滓勢力と一部反動分子の毒手に倒れた同志及び獄中に闘う闘士」に対する追慕と感謝が挿入された点である。

 また、この檄文は三・一運動の失敗原因、教訓を明らかにするのみならず、「ここから得た教訓を実践において活かしつつ一九四五年八月十五日まで最も革命的に闘争」した「民主勢力」と対立する「勢力」に対する批判を行った。檄文は、①親日派・日帝残滓勢力の存在、②その勢力が解放後の正当な路線を妨害していること、③民主化が進む北朝鮮と対照的に南朝鮮では封建勢力と日帝残滓勢力の蠢動が社会混乱の根源となっていること、④その勢力がモスクワ三相会議決定に基づく朝鮮民主臨時政府樹立を破綻させようとしていること、⑤日本においても祖国事情が反映して、運動が非常に困難になっていることを挙げ、三・一運動の伝統を発展的に展開して民主課業を成功的に遂行しうる体制を整備することを呼びかけた。

 解放直後の三・一記念日とは異なり、二度目の三・一記念日には「解放」後の三・一運動の継承、発展を強調しなければならない現実が存在していたのである。朝連は再び、記念日当日に「三・一革命記念日を迎えて在日同胞に檄する」という檄文を発表し、次のように訴えた。

 

われわれが解放されて初めて迎えた昨年三・一記念日はただ解放されたという喜びに溢れ『祝典』を挙行しただけだった 。しかしその後一年間、われわれは二十八年前のこの日から始まった民族解放のための闘争は決して終わっていないということを知った。のみならず人民政府が樹立し、完全自主独立を戦取するときまで継続しなければならないということを冷厳な現実のなかで知った。在留同胞諸君!二十八年前の今日は日本帝国主義者たちがわが革命闘士たちを『不逞鮮人』として、投獄、拷問、虐殺によって弾圧した。今、南鮮〔ママ〕では塗炭に陥った人民大衆が『生きるために米をくれ』、『政権を人民大衆に渡せ』というスローガンを高く掲げ、血の闘いを続けている。

 

 解放後初めての三・一記念日は「解放の朝鮮を謳歌」し、「感激に溢れ、涙を流しながら」迎えられた。しかし、その後の1年間の「冷厳な現実」のなか、在日朝鮮人は「二十八年前のこの日から始まった民族解放のための闘争」を継続しなければならなかったのである。この時期に至るとたびたび朝鮮民族の「解放」が問い直され、真の「解放」を目指すべきであることが強調されるようになった。


三・一檄文 

 朝鮮民族の「解放」、「完全独立」が果たされないなか、このように1947年には三・一運動の経験を継承し、その歴史的教訓を活かすことがそれまで以上に強調されたのである。たとえば尹槿・朝連中総委員長は「解放後一年が経っても完全独立が果たされない現段階において三一記念日を迎えていることは莫大な意義がある」として「われわれは三一運動の歴史的教訓を誠実に活かさなければならない」と訴え、民戦の路線に結集することを呼びかけた。

 

―三・一運動と十月抗争の「史的相似性」


 この時期の朝連の三・一運動に関する認識として重要な点は、三・一運動と十月抗争の「相似性」を強調したことである。たとえば金萬有氏は朝鮮人生活権擁護委員会機関紙にて、「一九一九年と一九四六年とは、時間的にも、独立欲求の実質的内容においても、その力量においても、その差は発展的でなければならない」として「冷厳な現実は、われわれに、三・一事件と九、十月事件との相似性に対する正しい認識と批判を痛切に要求している」と強調した。この後も十月抗争は三・一運動の継承、発展として位置づけられ、1948年に至ると三・一運動との「相似性」のみならず、二・七救国闘争への「継続」が強調されるようになる(※注)。

 さらにこの時期、十月抗争、十二月事件という米軍による弾圧事件のなかで、南朝鮮と日本を占領した米軍に対する抗議と怒りが鮮明化する。李鐘泰氏は朝鮮人生活権擁護委員会機関紙の「民族的行動への態勢 三・一革命の教訓を活かせ」という「主張」(1947227日付)にて、三・一記念闘争と十二月事件逮捕者の本国送還問題が有機的に結びついていることを強調した上で次のように訴えた。

 

本国事情は、われわれに何を教えているか。南北は対称的現像を示し、一方は建設的発展的方向に向かっているのに反し、他方は破壊的逆行的混乱に陥っている。昨秋の南鮮人民抗争事件の意義と三・一革命のそれとをその史的相似性において正しく理解するとき、一九一〇年八月二十九日、日本に合併された日から三・一革命までの十年間も鬱積された憤怒と丁度同じものを、解放されたという今日われわれは感覚せずにはいられない。一九一八年一月八日平和条約の基礎条件として提唱せるウィルソン氏の十四ヶ条の中の一項である民族自決論は戦勝者のある種の意図を隠ぺいする政策として利用するには大いに役立ったかも知らないけれども、被圧迫弱小民族にとって救いの神の如く思われたその一項も、彼等の真の解放を実現させることはできなかった。その喜びとその失望もまた、八・一五直後のそれと同じものを感覚せずにはいられない。われわれは解放されたと喜んだ。どこが解放されているのか。われわれは今失望を否定することは出来ない〔中略〕当然、無慈悲に粛清一掃されるべき日帝残滓共がそのまま温存ないし強化され、人民に対するあらゆる非行と、民族の破滅をもかえり見ない我利どん欲が公々然と容認され、介助されている事実は何を物語るものであろうか。〔中略〕思いを在留六十万同胞にめぐらすとき、われわれもまた、本国に劣らず解放されたと思い、喜び感激した。われわれは解放民族としてのきんじの護持に努めると共に、それ応分の当然の権利を主張して来た。然るに、われわれに与えられたものは、あの十二月事件ではなかったか。〔中略〕携帯を許された警官のピストルは、正当防衛の名において同胞の殺戮に使用されている。〔中略〕然も、この言語道断な道化が、公然と容認され介助されているではないか。どこに解放があるか

 

 ここで訴えられている三・一運動と1946年秋の人民抗争の「史的相似性」を理解するときに通ずる同じ「憤怒」とは何か。李鐘泰氏は1918年に米大統領ウィルソンが提唱した民族自決論の欺瞞性を批判し、それと同じ「喜び」と「失望」が解放後に再現されていることを指摘したのである。同じ生活権擁護委員会機関紙にて劉宗煥氏が十二月事件の直前に、「十四原則の中には「民族自決」というのは必ずしも一切の民族の自主独立を主張するものではなかったかもしれない」が、「日本帝国主義への反抗の念にもえている朝鮮の勤労人民によき刺激剤であり、高らかな警鐘であったことは間違いない」と主張していたこととは対照的である。この後、劉宗煥氏は十二月事件によって逮捕され、194738日には南朝鮮に強制送還されることになった。

 南朝鮮と日本における米軍の占領政策、十月抗争と十二月事件という弾圧事件に対する怒りが高まるなか、三・一運動と1946年の人民抗争を重ね合わせ、米大統領ウィルソンの民族自決論の欺瞞性と現在とを対比することでアメリカに対する「失望」が明言されたのである。すでに朝連第三回全国大会(194610月)の報告では、在日朝鮮人が帰国を躊躇するようになった原因として、「南朝鮮米軍政庁が日帝統治時代の親日派官吏をそのまま、または一層雇用し、法律と機構がそのまま継承され」たことが指摘されていた。こうしたなか南朝鮮では九月ゼネスト・十月抗争が起きた。かかる状況下で南朝鮮における日帝残滓の「温存」・「強化」、そして日本における取締り強化、弾圧の「容認」・「介助」に対する怒りの声が挙がっていたのである。朝連は米軍占領下で南朝鮮民衆の「憤怒」と「失望」を共有し、米軍に対する怒りを鮮明化させていったのである。

 朝連は、解放後二度目に迎えた三・一記念に際して、「冷厳な現実」のなか、米軍が占領した旧宗主国における制約の下、十月抗争・十二月事件の犠牲者救援運動と三・一記念闘争を結びつけ、厳しい警戒のなか活動を繰り広げたのであった。(誠) (三)に続く


※注 三・一運動と十月抗争について

 三・一運動と十月抗争との歴史的関係について、詳細に整理されるのは1948年に至ってからである。19482月から4月にかけて『解放新聞』にて三・一の史的意義と今日の課題」という論文を執筆した李卿勲氏は、三・一運動と十月抗争の歴史的関係について、歴史的性格、基本情勢、闘争形態(①政治的スローガン、②領導権、③民族統一戦線、④親日派・民族反逆者など)に分け詳細に論じた。

 この論文はまず、2つの闘争の歴史的性格について、「反帝反封建ブルジョア民主主義革命」という点で同一だとする一方で、三・一運動が「完全な日帝独占支配下における独立闘争」であるのに対して、十月抗争は「国際公約の蹂躙と植民地化の危機」に対する「完全解放と自主独立闘争」であるという差異を忘れてはならないと指摘した。次に、三・一運動当時と比べ、十月抗争時における基本情勢の特徴として(一)国際的な朝鮮独立の保障、(二)国際的な民主力量の相対的強化、(三)北朝鮮における民主改革と物質的土台の確立による朝鮮の民主力量の成長を挙げ、「量質において主体的に雲泥の差がある」ということを強調した。そして、闘争形態の差異として、闘争の日常生活との結合、民主課業という具体性、労働者階級の成長、「外来帝国主義勢力と結託した反動的民族ブルジョワジー」/「反動的封建地主」とその手先に反対する民族統一戦線の形成、親日派・民族反逆者が闘争の対象となったことを指摘した。


万歳 

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